この項目では、1993年設立の政党について説明しています。前身であるソビエト連邦の政党については「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党」をご覧ください。
ロシアの政党ロシア連邦共産党
Коммунистическая партия Российской Федерации
ロシア連邦共産党党章(共産党のシンボルである槌と鎌に本を加え、周囲に「ロシア、労働、人民権力、社会主義 Россия Труд Народовластие Социализм」のスローガンが囲む。)
中央執行委員長ゲンナジー・ジュガーノフ
成立年月日1993年2月14日
本部所在地〒103051 ロシアモスクワ、スコーレフスキー通り 3番 3号棟 本館
国家院議席数57 / 450 (13%)(2021年9月19日)
党員・党友数162,173人[1]
政治的思想・立場共産主義[2][3]
マルクス・レーニン主義[3]
21世紀の社会主義[4]
反資本主義[4]
ユーラシア主義
左翼 - 極左
機関紙『プラウダ』[5]
党旗
国際組織共産党・労働者党国際会議
共産党連合=ソビエト連邦共産党
公式サイトОфициальный сайт КПРФ
ロシア連邦共産党(ロシアれんぽうきょうさんとう、ロシア語: Коммунистическая партия Российской Федерации КПРФ, 英語: Communist Party of the Russian Federation CPRF)は、ロシアの共産主義政党。党首は中央執行委員長のゲンナジー・ジュガーノフ。 ロシア連邦共産党は、1991年のソ連共産党の崩壊の後を受けて、1993年にロシア共和国共産党再建のための組織委員会が発足し、エゴール・リガチョフ、アナトリー・ルキヤノフら旧ソ連共産党保守派の党員が結集したところから始まる。こうしてロシア連邦共産党が結成され党首にジュガーノフを選出した。 同党はエリツィン政権下でアナトリー・チュバイス、エゴール・ガイダルらの主導によって行われた経済改革(ショック療法)により生活を直撃された低所得者層の支持を獲得していった。ソ連時代からのロシアの社会制度を破壊する急進的な資本主義化や、ソ連時代に保たれたロシア領土の一体性を崩壊させたチェチェン紛争を取り上げてエリツィン政権に批判を加えた。 1995年1月21日に開催された第3回党大会では新しい綱領を採択した。このロシア連邦共産党綱領は、ソ連共産党綱領を批判的に継承した文書と評価される。長期的な戦略目標としてロシアの直面している政治的、経済的危機の克服と社会主義体制復活の準備、社会主義体制への移行、社会主義の発展という三段階による「社会主義の復活」を掲げた。その中で当面は、第一段階に立脚し、議会の内外による活動を宣言し、人民代議員大会の復活、ソ連再建やショック療法、民営化の放棄などを謳った。 同時に党大会ではロシア連邦共産党のイデオロギー及び権力獲得の戦略を集約し、同党がボリシェヴィキ以来のソ連共産党の後継者であり、国際共産主義運動の経験に則り、勤労者の政党としての再生を図るとした。また、党歌にインターナショナルを、党章に鎌と鎚に本を加えることを、スローガンには「ロシア!労働!人民権力!社会主義!」≪Россия! Труд! Народовластие! Социализм!≫をそれぞれ採択した。 1995年ロシア下院選挙では、エリツィン政権に対する不満を吸収し、157議席を獲得し第一党となった。続く1996年ロシア大統領選挙では、ジュガーノフは、カリスマ性が足りないと言われながらもエリツィンに一時僅差まで追い込んだ。同年、スイスのダボス会議でジュガーノフは穏健な姿勢を示して欧米の政治家や財界人からも支持された[6]。しかし、このジュガーノフの歓迎ムードに危機感を覚えたジョージ・ソロスはボリス・ベレゾフスキーに行動を促し、ベレゾフスキーらオリガルヒはエリツィン再選に動くこととなった[7]。1996年からは共産党のゲンナジー・セレズニョフがロシア連邦議会下院議長を務めた。 1998年から1999年までのエリツィン政権下ではソ連時代にゴスプラン議長兼第一副首相だったユーリ・マスリュコフがセルゲイ・キリエンコ内閣で産業貿易相、エフゲニー・プリマコフ内閣で第一副首相に起用され、共産党は与党であった。 1999年ロシア下院選挙でも第一党の座を維持するが、プーチン政権になって行われた2003年ロシア下院選挙では、反プーチンの立場を鮮明にしていたオリガルヒであるミハイル・ホドルコフスキーの大手石油会社ユコスから献金を受けていたことなどが暴露され、大幅に議席を失う。2007年ロシア下院選挙でも議席をほとんど増やせなかった。92議席を増やしたプーチン政権の与党「統一ロシア」とは対照的である。 2009年には、モスクワ北西部のトヴェリ市議会選挙で共産党が勝利しており、世界金融危機に伴う景気失速で共産党は支持を伸ばしたとされる。 2011年ロシア下院選挙では1259万9507票(19.19パーセント)を獲得し、92議席と議席を増やすも第一党に返り咲くことは出来なかった。ところが、シンクタンクGovernance and Problem Analysis Centerの調査によると、ロシア連邦共産党が2011年の下院選で本当は30パーセントの得票を獲得、第一党になっていたという結果が出た(統一ロシアは二位の22パーセントの得票)。2011年の下院選の監督者であったウラジーミル・チュロフは、「私は選挙スタッフたちにモスクワとサンクトペテルブルクの精神病院の住所を把握するようお願いします」(要するにそこに行けということ)と批判した。なお、与党である統一ロシアは「報告書はファンタジーでありコメントするに値しない」と述べた[8]。 2014年のノヴォシビルスク市長選[9]、2015年にはイルクーツク州の知事選で共産党が統一ロシアに勝利しており[10]、シベリアで勢力を伸ばした。
沿革