ロシア象徴主義
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ミハイル・ネステロフの絵画 「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」 (1890年) しばしばロシア象徴主義の幕開けを告げたと見なされている美術作品の1つ。

ロシア象徴主義(ロシア語: Русский символизм)とは、19世紀末から20世紀初頭のロシア帝国において支配的だった芸術運動ヨーロッパ芸術界における象徴主義運動のロシア版であるが、その美学思想文学に限らず、美術音楽舞踏にまで波及した点において、他国にはない特異性が見られる。
ロシア象徴主義文学

ロシア象徴主義運動への根本的な影響は、フョードル・チュッチェフの詩やヴラディーミル・ソロヴィヨフ哲学における非合理主義(反理性主義)の美学や神秘主義であり、これらにリヒャルト・ワーグナー楽劇や、アルトゥール・ショーペンハウアーフリードリヒ・ニーチェの思想、フランスの象徴主義や頽廃主義詩人たち(ステファーヌ・マラルメポール・ヴェルレーヌシャルル・ボードレールら)、ヘンリク・イプセン戯曲といった同時代の西欧の文化思潮が加わっていた。

ロシア象徴主義運動の火蓋は、ニコライ・ミンスキーの論文『昔の討論』(1884年)やディミトリー・メレシュコフスキーの著作『現代ロシア文学の衰退と新思潮』(1892年)によって切られた。両者とも極端な個人主義を奨励し、創造行為を神聖化したのである。メレシュコフスキーは詩作ばかりでなく、一連の「神人」(イエス・キリストジャンヌ・ダルクダンテ・アリギエーリレオナルド・ダ・ヴィンチナポレオン・ボナパルト)についての小説でも名高く、後にアドルフ・ヒトラーさえも神人と崇めたことによって顰蹙を買った。メレシュコフスキー夫人のジナイーダ・ギッピウスもまた象徴主義運動初期の主要な詩人で、サンクトペテルブルクに文学サロンを開き、「ロシア頽廃主義の本拠」として知られるようになった。
象徴主義の勃興

1890年代の半ばまで、ロシア象徴主義はなお単なる理論の集合にすぎず、注目に値する実践者は見出されていなかった。アレクサンドル・ドブロリューボフは1895年詩学論を出版しているが、その直後も詩作はうち棄てられたまま、象牙の塔から象牙の塔へと彷徨うことをよしとされていた。もう1人の有能な作家、イヴァン・コネフスコイは24歳の若さで夭折している。象徴主義が大きな運動としてロシア文壇に躍り出るには、新人ヴァレリー・ブリューソフの出番を俟つしかなかった。

ブリューソフは、象徴主義が手強い信奉者からなる運動であることを示そうとして、おびただしい数の筆名を使い分け、3巻からなる自作の詩集を『ロシアの象徴主義者たち。詞花集』と題して1894年1895年に出版した。ブリューソフの戦略的な「煙幕」は、成功した。数人の若い詩人が、ロシア文学最新の流行として象徴主義に惹き付けられたのである。ブリューソフのほかに最も人気のある詩人といえば、最初の霊感を信じて、時折わざと詩句を改訂しなかったコンスタンティン・バリモントや、「死の吟遊詩人」を自称した悲観主義者のフョードル・ソログープがいる。

これらの作家の多くは、20世紀半ばまでに名声を失ったものの、象徴主義運動の影響はそれでもなお絶大だった。これはとりわけインノケンティー・アンネンスキーの場合に当てはまる。アンネンスキーの最後の詩集『糸杉材の箱』は1909年に死後出版された。しばしば「呪われた詩人」のロシア版として言及されるアンネンスキーは、ボードレールやヴェルレーヌの詩に不可欠の抑揚をロシア語に写し取ろうと努めたものの、繊細な音楽性や不気味な暗示、不可解な語彙、色彩や芳香のかすかな変化の魅力といったものはみなアンネンスキーならではのものである。アンネンスキーがアクメイズムの詩人たち(アンナ・アフマートヴァニコライ・グミリョーフオシップ・マンデリシタームら)に与えた影響は計り知れない。
第二世代

ロシア象徴主義が真に花開いたのは、20世紀に入って最初の10年間である。多くの才能ある新人が、象徴主義の流れを汲んだ詩を発表しはじめた。これらの作家は、とりわけ哲学者ヴラディーミル・ソロヴィヨフの恩恵を受けていた。文学研究者で詩人のヴャチェスラフ・イヴァーノフは、古代の詩に興味を寄せており、イタリアから戻ると文学クラブ「ディオニュソス派」をサンクトペテルブルクで旗揚げした。イヴァノフの公言した原理とは、「古雅なジョン・ミルトンの言い回し」をロシアの詩歌に接木することだった。ロシア革命についての詩で名高いマクシミリアン・ヴォローシンは、クリミアの別荘で詩のサロンを開いていた。アレクサンドル・スクリャービンと親しいユルギス・バルトルシャイティスは、革命までは故郷リトアニアで活躍し、神秘主義的な哲学や魔術的な響きが特徴的な詩を書いた。

新世代の詩人のうち、二人の新人、アレクサンドル・ブロークアンドレイ・ベールィは、ロシア象徴主義運動の全体でも最も著名な詩人となった。

アレクサンドル・ブロークは、20世紀ロシアの詩壇を主導した詩人の一人と広く見なされている。しばしばアレクサンドル・プーシキンと並び賞せられ、ロシア詩壇の「銀の時代」全般が、ときに「ブロークの時代」と呼ばれたほどである。初期の詩歌は完璧なまでに音楽的で、響きが豊かである。時代が下るにつれ、ブロークは、自作に破調(リズム定型の冒険)や破格(不規則な韻律)を取り入れてみようとした。成熟期の作品は、プラトン的な美の理想と、郊外の薄汚い工業地帯での陰鬱な現実生活との齟齬をしばしば基礎としている。これらの詩は、色彩や綴りを特徴的な方法で用いて意味を表現していることが多い。ブロークの作品で特に有名で、かつ物議を醸した詩として『十二人』がある。この詩は、革命下のペトログラードの通りを行進する12人のボルシェヴィキ軍を、(キリストの十二使徒になぞらえて)宗教的テクストの語法を真似て綴ったものである。

アンドレイ・ベールィは、その文学活動の大半を通して、散文・韻文・音楽の統合を試みた。それは、初期の作品に「交響曲」と名を付けられた散文詩があることにも表れている。しかしながらベールィの名声は、モダニズム小説『ペテルブルク』(1911年 - 1913年)など、もっぱら象徴主義以降の作品によるものである。『ペテルブルク』は哲学的・宗教的な作品で、著しく奇抜な語りの手法や、とらえどころのない引喩、特徴的なリズムの実験が目立つ。ウラジーミル・ナボコフはこの作品を、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』に次いで、20世紀で2番目に重要な小説に選んでいる。その他の特筆すべきベールィ作品としては、象徴主義運動の目標を再定義する上で重要な役割を果たし、非常に影響力のあった文学理論の小論集『象徴主義』(1910年)や、新生児の意識の芽生えをたどる小説『魂の遍歴(Котик Летаев)』(1914年 - 1916年)が挙げられる。

サンクトペテルブルク都市そのものが、ロシア象徴主義の第2世代によって用いられる主要なシンボルの1つになった。


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