ロシア自由民主党
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ロシア政党政党エル・デー・ペー・エル
Политическая партия ЛДПР

党首ウラジーミル・ジリノフスキー
成立年月日1990年(前身含む)
本部所在地モスクワ
国家院(国家会議)議席数39 / 450   (9%)
政治的思想・立場ロシア帝国主義[1][2]
右派ポピュリズム[3]
超国家主義[4]
汎スラヴ主義[5]
右派ナショナリズム[6]
混合経済[7]
欧州懐疑主義[8]
社会保守主義[9]
君主主義[10]
汚職[11]
反共主義[12]
ヴォジュディズム[13]
民族主義[14]
極右[14]
公式サイト ⇒www.ldpr.ru
国際組織特になし
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政党エル・デー・ペー・エル(Политическая партия ЛДПР)[15]は、ロシア極右政党。党首はウラジーミル・ジリノフスキー。旧称のロシア自由民主党(ロシアじゆうみんしゅとう、Либерально-Демократическая Партия России)で知られる。類似名の日本ドイツイギリスの政党とは無関係であるが、設立当初はこれらの党との連携を一方的に謳ったこともある。

前身は1990年4月に設立されたソ連自由民主党である。この党は、ジリノフスキーを党首として、ロシア大統領選挙に向けて、国家保安委員会(KGB)の工作で出来たとされる。1991年6月のロシア大統領選にジリノフスキーは出馬し、泡沫候補扱いされたが、結果は、エリツィンロシア最高会議議長、ルイシコフ元ソ連首相に次いで3位につけた。1992年4月、党名をロシア自由民主党に改称した。

「自由民主党」を名乗っていたが、党は極右政党である。党首のジリノフスキーも再三にわたり、旧ロシア帝国の復活を主張する立場から、アメリカに対してアラスカ返還を主張したり、中央アジアに露骨に領土的野心を吐露したり、日本北方領土返還運動に対して東京核爆弾を落とす旨などの過激かつ奇矯な発言・行動を繰り返して、世界からは白眼視された。しかし、急進的な市場経済の導入や経済改革の結果生じたハイパーインフレーションに嫌気がさしていたロシア国民からは、圧倒的支持を獲得した。1993年12月の下院選挙で自民党は第1党に躍進する。しかし、その後の党勢は凋落し、1995年下院選挙では、公約にアラスカ侵攻などを訴えたがロシア連邦共産党に第1党の地位を奪われる。1996年大統領選挙ではジリノフスキーは5.7%の得票率で第5位。その後は、政府に買収されて親エリツィンに転向した。

1999年ロシア下院選挙でロシア自由民主党は第6位。ジリノフスキーには、クレムリンへの忠誠の報酬として下院副議長の地位が与えられた。

2003年ロシア下院選挙では、比例区で36議席を獲得した。

2007年ロシア下院選挙でも7パーセント条項を超える566万823票(得票率8.14パーセント)を獲得し40議席に議席を増やした。

2009年7月7日、自由民主党は日本で改正北方領土問題解決促進特別措置法が成立したのを受け、「カムチャッカから北海道までの島々がロシア固有の領土」とする対抗法案を提出した[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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