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ロシアの演劇(ロシアのえんげき)は、1917年の社会主義革命以前のロシア人による演劇をいう。それ以降のソビエト連邦内の多民族演劇を総称してソビエト演劇という。19世紀後半から1920年代までのスタニスラフスキー、ダンチェンコによるモスクワ芸術座や、メイエルホリドらによる活動は世界演劇に強烈な影響を与えた。 ロシア最初の俳優はスコモローヒ(放浪芸人)と呼ばれていた。スコモローヒについては、キエフにあるソフィア寺院のフレスコ画に描かれているものが最古のもので、11世紀中頃とされる。[1]そして17世紀末までは、このスコモローヒによる芸能が民衆の主要な娯楽であった。スコモローヒには楽師、歌い手、踊り手、調教された熊による芸を行う者などがいた。このようなことを行うのは、一般に貧しい放浪者であった。また、スコモローヒは徐々に興行のために見世物小屋(バラガン)を作るようになる。 16世紀中頃、ロシアでも宗教劇が行われる。「かまどの劇」「最後の審判の劇」「ロバに乗った行進の劇」がロシア最初の宗教劇とされる。 17世紀に入ると、ロマノフ王朝二代目皇帝のアレクセイ・ミハイロヴィチが、ヨーロッパの宮廷劇場をまねてロシア最初の宮廷劇場を作る。シメオン・ポロツキーが「ネブカドネザル王の喜劇」(後に「放浪息子の喜劇」と改題)を上演する等が行われた。建設にあたっては、大貴族(ボヤーリン)アルタモン・マトヴェーエフが中心となった。またルター派牧師のドイツ人ヨハン・ゴトフリード・グレーゴリに俳優術を教えるよう依頼するなどした。この宮廷劇場は建設された1672年からアレクセイの亡くなる1676年まで存続した。 その後ピョートル1世にロシアの首都がモスクワからサンクトペテルブルクへと移され、ヨーロッパで教育を受けていたピョートルはヨーロッパ文化をロシアへと広めた。また演劇にも関心を持ち、庶民啓蒙の手段として希望すれば誰でも観ることができるようにと劇場を建てた。 アンナ・イオアンノヴナの時代には国務より娯楽を好んだアンナの治世が、クーデターを引き起こすなどしたものの、その後のエリザヴェータの時代には科学や文化の発展が起こる。特に彼女はロシア初のプロ劇団形成へ、重要な役割を果たすことになる。 フョードル・グリゴーリエヴィチ・ヴォルコフ(1729 - 63)が、1750年にヤロスラヴリにおいてロシア最古のプロの劇場を創設し、成功を収めていた。これを聞いたエリザヴェータはヴォルコフをペテルブルクへ招き、1756年に「喜劇および悲劇上演のためのロシア劇場」設立とそのための融資に関する勅令を出した。そして初の国立プロ劇団が出来た。これがアレクサンドリンスキー劇場の起源である。 また、モスクワにもエリザヴェータの元プロ劇団が作られ、これは後のマールイ劇場となる。そしてこれらの劇場は帝室劇場と呼ばれるようになる。 この頃には、裕福な貴族が自宅に劇場を作る習慣があった。俳優のほとんどは農奴であった。1757年にロシア最初の女優タチアーナ・トロエポーリスカヤが出た。 エカチェリーナ2世の時代には、1766年に舞台芸術に対する国家の支援の形や規模を定めた「劇場に所属する全ての人々に対する支出項目」という文書が公布された。
起源
18世紀