ロシア正教会の歴史
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世界の正教会全体歴史については、正教会の歴史を参照

ロシア正教会の歴史では、キリスト教独立正教会のひとつであるロシア正教会の歴史を扱う。
出発点をめぐる論争

ロシア正教会の出発点をどこに設定するかでまず論争が存在する。

ロシア」という地域名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるようになったのは16世紀になってからのことである。「ロシア」がどこから出発したかが曖昧な以上、「ロシア正教会の歴史」と言った場合もどこに記述の出発点を置くべきかは必然的に議論が分かれるものとなる。

11世紀までは、ルーシの中心地域が現在のウクライナの首都であるキエフ周辺だったことを反映し、正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代ウクライナとなっている南西ルーシ地域は14世紀前後に隣国のリトアニア大公国ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカチェリーナ2世による併合に至るまでウラジーミルモスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されてもいた。「ルーシ」の正教会の歴史と、北東ルーシのモスクワを中心とする現在のロシア正教会の歴史とは分けて考えるべきだとする見方も説得力はある。

だが当初からキエフ府主教座は北東ルーシをも管轄していた。キエフ・ルーシ時代の正教会とロシア正教会の歴史との間にどこまで連続性を認めるかは難しい議論となり決着はつかない。これは特にウクライナにおいて、政治的立場と相俟って熱い論争となる歴史認識問題である。国境や民族の居住区域、地域の中心地が一定することのない、大陸のどこでもみられる論争である。

本項では、連続性を有しかつ時代的境界線を設定し難い教会史の性質もあり、キエフ・ルーシ時代の正教会とロシア正教会の連続性を一定程度認め、10世紀後半頃のルーシから詳細な記述を進める。ロシア正教会の出発点をより後代に看做す立場からも、この時代の正教会の歴史はロシア正教会の歴史を知る上では必須の「ロシア正教会前史」であるとは最低限言えるからである。なお参考までに、10世紀後半以前のクリミア半島も含めた状況および伝承についても最初に若干触れる。
クリミア半島とキエフの伝承

[1]ルーシの正教会伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイ(アンデレ)にさかのぼるとする伝承が残されている。黒海北東地方に伝道を行ったアンドレイは、のちにキエフが建設されるドニエプル川河畔の丘陵地帯で祝福の祈りを行い、十字架を立てたとされる[2]

東ローマ帝国の版図となっていたクリミア半島には、1世紀末のローマの聖クリメントケルソネソス近くに流刑にされ、その後致命したという伝承や[3][4]8世紀後半のクリミヤの克肖者聖神父イオアンの伝承[5]にみられるように、既にキリスト教が広まっていたが、こうした黒海沿岸のギリシア植民市におけるキリスト教はルーシ内陸部にまでは定着しなかった。
キエフからモスクワへの軌跡
ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立キエフ・ルーシ時代の聖ソフィア大聖堂の模型。

正教会の伝承によれば、ルーシの正教伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが[2]、本格的な正教伝道の試みが歴史的に確認できるのはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)総主教フォティオス(在位:858-861? 878-886)によるものである。また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガキリスト教正教会[注 1]の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった[6]

まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い[7][注 2]府主教座は当時ルーシ[注 3]の中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた[注 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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