ロシア帝国の歴史
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ロシア帝国の歴史では、1721年から1917年まで存在したロシア帝国およびその統治下に入った地域の歴史について詳述する。

ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい[1]。なお、1917年の帝政終焉後に成立したソヴィエト政権はロシア暦を廃止してグレゴリオ暦に移行し、1918年1月31日の翌日を2月14日としており、これ以降の日付は新暦のみとする。
歴史
前史
ロマノフ朝以前のロシア詳細は「モスクワ大公国」および「ロシア・ツァーリ国」を参照

ロシア帝国の源流はモスクワ大公国にある。イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)は1480年にジョチ・ウルスの支配(タタールのくびき)を脱し、彼とその子のヴァシーリー3世(治世1505年 - 1533年)の時代にモスクワ大公国はノヴゴロド共和国や周辺諸公国を併合して、北東ロシアの統一をほぼ完成させた[2]。イヴァン3世のとき、初めて「ツァーリ」(王)の称号が用いられた[3][n 1]

ヴァシーリー3世の没後、僅か3歳で即位したイヴァン4世(雷帝)(在位1533年 - 1584年)は1547年に正式に「全ルーシのツァーリ」として戴冠した[4]。イヴァン4世は「選抜会議」政府を組織し、「法典」の編纂、教会・修道院、行政そして軍制の改革を進め[5]、対外的にはカザン・ハン国そしてアストラハン・ハン国を征服してヴォルガ川流域を支配下に置き、シビル・ハン国を攻撃してシベリア進出への道を開いた[6]。1558年にはバルト海への出口を求めてリヴォニア騎士団領に攻め込むが、ポーランド・リトアニアスウェーデンそしてデンマークの介入を呼び込む結果となった(リヴォニア戦争[7]。戦争が泥沼化するとイヴァン4世は「選抜会議」政府を退け、ツァーリに忠実なオプリーチニキを用いた恐怖政治を始める[8]。大貴族を迫害するだけでなく、聖職者や庶民も犠牲となり、1570年にはノヴゴロド市民数万人が虐殺された[9]。戦争や凶作に加えて、この圧政により国土は荒廃したが、ツァーリ権力の恐怖が国民に叩き込まれることになった[10]
ロマノフ朝の成立詳細は「動乱時代」および「ロマノフ朝」を参照ミハイル・ロマノフにツァーリ即位を懇願するゼムスキー・ソボル。
1672年製作の木版画。

1584年にイヴァン4世が死去して、フョードル1世(在位1584年 - 1598年)が即位するが、彼が跡継ぎを残さずに死去したためリューリク朝は断絶した。全国会議(ゼムスキー・ソボル)の支持を受けた外戚のボリス・ゴドゥノフが即位するが、死去したと伝えられていたイヴァン4世の子ドミトリーを名乗る男が現れ(偽ドミトリー1世)、ポーランド軍とともにロシアに侵攻した。1605年にボリス・ゴドゥノフは事態を収拾できずに死去し、偽ドミトリー1世がモスクワを占拠してツァーリに即位した。偽ドミトリー1世は1年程で殺害されるが、偽ドミトリー2世3世が現れて内戦状態が続き、1610年にはロシア・ポーランド戦争を起こして介入したポーランド軍にモスクワを占領される事態に陥った(動乱時代)。この時期にロシアはスモレンスクを含む西部国境地帯の一部をポーランドに、バルト海沿岸のノヴゴロドをスウェーデンに奪われている[11]

ポーランドの支配に対して総主教ゲルモゲーンをはじめする抵抗運動が起こり、1612年に国民軍の攻撃によってポーランド軍は追われ、モスクワは奪回された。1613年2月、全国会議は古くからの名門貴族ロマノフ家ミハイル・ロマノフ(在位1613 - 1645年)をツァーリに選出して、ロマノフ朝が開かれた[12]。ミハイル・ロマノフの父親フィラレート総主教に就任して実権を握り、スウェーデン、ポーランドと休戦するとともに国内治安の回復に努めた[13]。1632年、フィラレートは失地回復を目指してポーランドと開戦するが、失敗に終わった(スモレンスク戦争[14]。戦争中にフィラレートが死去してミハイル・ロマノフの親政に入り、南方のクリミア・ハン国の侵攻に備えるべく全長800kmに及ぶペルゴロド線を構築した上で、対外戦争を控え、もっぱら国内秩序回復に努めた[15]

アレクセイ(在位1645年 - 1676年)の即位後、程ない1648年にウクライナザポロジェ・カザークがポーランドに対して反乱を起こして、ツァーリの庇護を求めた[16]。アレクセイはポーランドとの開戦に慎重であったが、全国会議の要請を受け、ザポロジェ・カザークとペレヤスラフ条約を結び、ポーランドとの戦争に突入する[17]。13年に渡って続いた戦争はアンドルソヴォ条約によって終結した。ロシアは動乱時代に失った西部国境地帯のみならず、ドニエプル川左岸のウクライナと右岸のキエフをも獲得した[18]。アレクセイの時代に会議法典(英語版)が定められて都市住民の統制そして農奴制が法的に完成しており、またツァーリによる専制体制化が進められ、全国会議の役割が終焉した[19]。彼の治世に総主教ニーコンの典礼改革を巡って対立が起き、正教会が分裂して古儀式派が成立している[20]
ロシア帝国の成立(1682年 - 1725年)ピョートル1世。
アレクセイ・アントロポフ(英語版)画。18世紀。詳細は「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」および「大北方戦争」を参照

フョードル3世(在位1676年 - 1682年)の短い治世の後、幼い彼の異母弟ピョートル1世(在位1682年 - 1725年)が即位するが、ストレリツィの蜂起 (1682年)(ロシア語版、英語版)によってピョートル1世の外戚ナルイシキン家が粛清され、イヴァン5世(在位1682年 - 1696年)との共同統治となり、姉ソフィアが摂政として実権を握った。ソフィアの摂政政府は進歩的政策を採ったが、クリミア遠征の失敗によって信望を失って失脚し、ナルイシキン家が政権に復帰した[21]


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