1783年に起きた出来事については「ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合」をご覧ください。
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ロシアによるクリミアの併合(ロシアによるクリミアのへいごう)は、国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア半島を構成するクリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市をロシア連邦の領土に加えるもので、2014年3月18日にロシア、クリミア、セヴァストポリの3者が調印した条約に基づき実行された。
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North Atlantic Treaty Organization
1991年のソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後初の、ロシアにとって本格的な領土拡大となった。クリミアとセヴァストポリにおける住民投票、独立宣言、併合要望決議、そしてロシアとの条約締結という段階を踏んで併合宣言が行われたが、国際連合やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法に違反していることなどを理由としてこれを認めず、国際的な承認は広く得られていない。
歴史的背景詳細は「クリミアの歴史」を参照ケルソネソスの遺跡と聖ウラジーミル大聖堂。ウラジーミル・プーチン大統領は3月18日に演説で988年のクリミアでのウラジーミル聖公の洗礼にまで言及した。オスマン帝国の宗主下にあったクリミア・ハン国[注釈 1]をロシアに併合した、エカテリーナ2世
ロシア連邦は、988年に全ルーシの共通の祖先であるウラジーミル1世が洗礼を受けルーシのキリスト教化の端緒を開いたのは、当時東ローマ帝国の支配下にあった植民都市ケルソネソスであったとして、クリミアが「ロシア固有の領土」であることを主張している。一方、ウクライナは、モスクワに関する初めての記述は1147年であるとし、そもそもキエフ・ルーシをロシアの起源であるとの立場を認めない立場を採っている[1]。国家起源は、ロシア史とウクライナ史の歴史観の相違の見られる重要点の一つである。
キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。
1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のテュルク=モンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。
クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔[注釈 2]であるハジ・ギレイ(英語版)をハンとしてクリミア・ハン国を形成した。