ロシアによるクリミアの併合
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

1783年に起きた出来事については「ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}ウクライナ紛争 (2014年-) > 2014年クリミア危機 > ロシアによるクリミアの併合クリミア(濃緑)とウクライナ(薄緑)、ロシア(薄赤)

ロシアによるクリミアの併合(ロシアによるクリミアのへいごう)は、国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア半島を構成するクリミア自治共和国セヴァストポリ特別市をロシア連邦の領土に加えるもので、2014年3月18日にロシア、クリミア、セヴァストポリの3者が調印した条約に基づき実行された。

画像外部リンク
North Atlantic Treaty Organization - National Geographic Mapsの2022年3月4日のインスタグラムの投稿。クリミア半島がロシアの版図として描かれている。

1991年ソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後初の、ロシアにとって本格的な領土拡大となった。クリミアとセヴァストポリにおける住民投票、独立宣言、併合要望決議、そしてロシアとの条約締結という段階を踏んで併合宣言が行われたが、国際連合やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法に違反していることなどを理由としてこれを認めず、国際的な承認は広く得られていない。
歴史的背景詳細は「クリミアの歴史」を参照ケルソネソスの遺跡と聖ウラジーミル大聖堂。ウラジーミル・プーチン大統領は3月18日に演説で988年のクリミアでのウラジーミル聖公の洗礼にまで言及した。オスマン帝国の宗主下にあったクリミア・ハン国[注釈 1]ロシア併合した、エカテリーナ2世

ロシア連邦は、988年に全ルーシの共通の祖先であるウラジーミル1世洗礼を受けルーシのキリスト教化の端緒を開いたのは、当時東ローマ帝国の支配下にあった植民都市ケルソネソスであったとして、クリミアが「ロシア固有の領土」であることを主張している。一方、ウクライナは、モスクワに関する初めての記述は1147年であるとし、そもそもキエフ・ルーシをロシアの起源であるとの立場を認めない立場を採っている[1]。国家起源は、ロシア史とウクライナ史の歴史観の相違の見られる重要点の一つである。

キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。

1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のテュルクモンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。

クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔[注釈 2]であるハジ・ギレイ(英語版)をハンとしてクリミア・ハン国を形成した。

クリミア・ハン国が形成されたのと同じ15世紀頃、モスクワ大公国リトアニア大公国とハン国との間の緩衝地帯となったステップ(現在のウクライナとロシアの南部)に住み着いた正教徒の人々が、コサック(コザーク、カザーク)と呼ばれる武装集団を形成した。1550年代、ウクライナ・コサックヘトマン、ドミトロ・ヴィシネヴェツキー(英語版)は、コサックを軍事組織化し、ドニエプル川の中洲にタタールの侵入に対抗するための要塞を建設した。これにより形成されたザポロージャ・シーチ(英語版)のコサックは、クリミア半島やオスマン帝国への襲撃を行うようになった。

コサックがポーランド・リトアニア共和国からの自立を目指したフメリニツキーの乱(1648年-1657年)では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキーはクリミア・ハン国と同盟して挙兵した。

1682年、第二次ウィーン包囲により大トルコ戦争が開始されると、ロシアも参戦して露土戦争(1686年-1700年)を有利に進め、1700年にコンスタンティノープル条約が締結された。

1774年、露土戦争(1768年-1774年)に敗れたオスマン帝国は、キュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国に対する宗主権を放棄させられ、名目上独立したクリミア・ハン国はロシア帝国の影響下に入った。1778年にはロシアによって正教徒の住民がクリミアからアゾフ海北岸のマリウポリ周辺に強制移住させられた。そして1783年、ロシア帝国はキュチュク・カイナルジ条約を破棄してクリミア・ハン国を併合した。

当時の皇帝エカテリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンの主導で、クリミア半島とその北に位置するノヴォロシアと呼ばれる地域の開発が推し進められた。この時には開発のために移住させられた者の多くはウクライナ・コサックであった。

南下政策を推し進めていたロシアにとってはクリミアは格好の不凍港の建設地でありセヴァストポリ要塞などが建設されるとともに黒海艦隊が創設され、これを母港とした。

1854年クリミア戦争ではセヴァストポリ要塞をめぐる攻防戦は黒海戦線では最大の激戦地となった。

比較的温暖な気候であることから、アレクサンドル3世ヤルタリヴァディア宮殿を営んだように、クリミアはロシア人の保養地としてにぎわうようになった。アレクサンドル・プーシキンバフチサライを訪れ、クリミア・ハン国の伝説に基づいた『バフチサライの泉』を著したり、レフ・トルストイアントン・チェーホフがヤルタに一時居を構えたりしており、チェーホフの『犬を連れた奥さん』の舞台にもなっている。このようにクリミアはロシア・ロマン主義の中心地となった。

20世紀に入りソビエト連邦が成立し、クリミア・ハン国に居住していたテュルクの流れを汲むクリミア・タタール人の他に、多くのロシア人が移住しクリミアの住民を構成することとなった[2]第二次世界大戦中にクリミア半島に進撃してきたドイツ国防軍に民族の一部が協力したとの疑惑から、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンはクリミア・タタール人全体をシベリアウズベクなど中央アジアへと強制追放し、その過程でクリミア・タタール人の約半数が死亡する事態となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:101 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef