ロシアにおける反ユダヤ主義
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ロシアにおける反ユダヤ主義(英語:Antisemitism in Russia)では、ロシア反ユダヤ主義およびそれに関連するロシアの政治、社会、文化におけるロシアのユダヤ人の状況と歴史を紹介する。各時代のヨーロッパ諸国の反ユダヤ主義とロシアの反ユダヤ主義の関係通史については「反ユダヤ主義」を参照
モスクワ大公国 (1263-1547)

モンゴルのくびきから解放されたイヴァン3世(在位1462年 - 1505年)がモスクワ大公国を四倍に拡大した時代、ユダヤ人はモスクワ大公国に足を踏み入れた[1]
スハリヤユダヤ教団事件

1470年頃、スハリヤという男がノヴゴロドでユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた[1]。しかし、スハリヤユダヤ教団は「ユダヤ教まがいのキリスト教徒」[2]として密かに活動を続け、イエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派(Markellos of Ankyra)、フォティノス派(Photinus)の教えと同じであった[1]。この「ユダヤ教」の教えはロシアで広まったが、全スラブ主義者が勝利して、イヴァン4世(在位1533年 - 1547年)治世下の1540年、スハリヤユダヤ教団の指導者たちは処刑された[1]

このスハリヤユダヤ教団事件以降、モスクワ大公国では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人への隔離政策も行われた[1]
ロシア・ツァーリ国 (1547-1721)

1550年イヴァン4世(イワン雷帝)は、ポーランド王ジグムンド=アウグストからユダヤ人商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国させることはできないと拒否した[1]
ロシア帝国 (1721-1917)

1698年ピョートル1世(ピョートル大帝)がアムステルダム市長ウィトセンからユダヤ人商人のモスクワ滞在の許可を求められると、自由思想の持ち主であったピョートル大帝は時期尚早と断った[1]1721年にピョートル大帝は皇帝インペラートル)を宣言し、ロシア・ツァーリ国ロシア帝国となる。

エリザヴェータ皇帝(在位1741-1762)は、ウクライナ、ロシアからのユダヤ人全員を追放し、以後入国も禁止した[1]1743年には元老院がユダヤ人商人の市場参加で帝国国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった[1]

パーヴェル1世(在位:1796年 - 1801年)は、ガヴリ?ナ・デルジャーヴィンにポーランドのユダヤ人調査を命じて、デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣以外の何物でもない、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家であり、ユダヤ人は隣人の財産を奪い取ることを目的としていると報告した[3]

ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位:1801年 - 1825年)は、ユダヤ人を市民として解放すれば、ユダヤ人のキリスト教への改宗を早めることができるとして、ユダヤ人解放を計画した[3]
ニコライ1世の時代 (1825 - 1855)

ロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825年 - 1855年)は、ユダヤ人対策を強化した。ニコライ1世は、教育相ウヴァーロフの提案で、ユダヤ人に対してロシアの学校に通学するか、ロシア語で授業をすることを強要した[3]。しかし、ロシア帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまり、皇帝はユダヤ人への不信感をつのらせ、密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じられた[3]1825年に起きたデガブリストの乱の指導者の一人ペステリは、ニコライ1世の対ユダヤ強硬政策に同調して、ユダヤ人は強制的にロシア人に同化させるか、パレスチナへ追放するかのいずれかであると述べている[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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