ロイ・ホワイト
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ロイ・ホワイト
Roy Hilton White
1970年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州ロサンゼルス
生年月日 (1943-12-27) 1943年12月27日(78歳)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション外野手
プロ入り1961年
初出場MLB / 1965年9月7日
NPB / 1980年4月5日
最終出場MLB / 1979年9月27日
NPB / 1982年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ニューヨーク・ヤンキース (1965 - 1979)

読売ジャイアンツ (1980 - 1982)

コーチ歴


ニューヨーク・ヤンキース (1983 - 1984, 1986, 2004 - 2005)

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ロイ・ヒルトン・ホワイト(Roy Hilton White、1943年12月27日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手外野手)。巨人とヤンキース両球団の4番打者を初めて務めた選手。
経歴

絵画彫刻を製作する白人芸術家の父親と、黒人の母親の間に生まれる。ホワイトが9歳の時に両親は離婚し、母親の元で育った[1]

1962年ニューヨーク・ヤンキースと契約。1966年にメジャー昇格後、ヤンキース一筋に15年間プレー。サーマン・マンソンと共に、1970年代序盤の低迷期から1970年代後半の3連覇まで主力選手としてチームを支えた。

1980年2月18日読売ジャイアンツに入団。勝負強いバッティングを買われてクリーンアップを任され、打率.285(15位)はチームトップ、28本塁打・75打点は王貞治に次ぐ数字を残した。1981年は打率.273、13本塁打とやや成績を落とす。日本ハムとの日本シリーズ第2戦(10月18日)では、0対1でリードされていた8回表2死1塁の場面で、日本ハムの先発・間柴茂有からライトスタンドへ逆転の2点本塁打を放ち、巨人は対戦成績を1勝1敗のタイに持ち込む。前日サヨナラ負けを喫したチームの窮地をホワイトが救った格好となった。1982年は前半戦は山本功児が使われたために、ホワイトの出番が少なかったが、後半戦はほぼ常時出場する。シーズンではNPBでのキャリハイとなる打率.296を記録するが、同年限りで引退した。

1983年から1988年にかけてヤンキースのコーチ・GM補佐・スカウトを務め、ビリー・マーチンヨギ・ベラルー・ピネラに仕える。1983年は一塁コーチであったが、1984年のシーズン途中からフロント入りして、マイナー・リーグを見て回る巡回コーチとなった[2]

1988年読売新聞の特別通信員となり、日米の野球比較や、MLBオールスターゲーム日米野球のメジャー選抜チームに関する記事を送った。巨人からは、アメリカ東海岸の球団を対象にしたスカウト活動も期待されていたが、ホワイト自身はスカウト活動は行わなかったという[3]1989年にはニュージャージ州の自宅近くに日本人画家版画を置く画廊を開く[2]1991年にはニューヨーク州ヴァレー・コテッジにロイ・ホワイト・インターナショナルを設立。少年向けの野球教室を行った[4]。そのほか、保険会社向け調査会社のバウアー・インベスティゲーション株式会社の副社長(PR担当役員)を務めている[5]

その後、オークランド・アスレチックス傘下のマイナーでコーチを歴任し、2004年から2005年まで再度ヤンキースのコーチを務めた。
選手としての特徴

肩の弱さがウィーク・ポイントだった。一方で、打球の落下地点についての天才的カンを利用して、外野フライを振り向くことなく捕球し、内野手に間髪を入れない送球によって、走者の進塁を一定度防ぐことに成功していた。
人物

NPBでのプレー当時は、気品ある振る舞いで知られ、日本人選手の手本になった[6]。NPB史上最も紳士的な外国人選手とも評されている[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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