ロイ・ブキャナン
コネチカット州シェルトンで、1978年
基本情報
出生名Leroy Buchanan
生誕 (1939-09-23) 1939年9月23日
アメリカ合衆国・アーカンソー州オザーク
ロイ・ブキャナン(Roy Buchanan、1939年9月23日 - 1988年8月14日)は、アメリカ合衆国のギタリスト、ブルースミュージシャン。
テレキャスターサウンドのパイオニアである[1]。ブキャナンは他のアーティストのサイドマンとして活動すると共に、ソロアーティストとしても活動し、その経歴の初期においては2枚のゴールドアルバムを獲得している[2]。また、後期にはアルバムをビルボードにチャートインさせている。スターダムにのし上がることは無かったが、現在でも非常に影響力を持ったギタリストとして見なされている[3]。ギター・プレイヤー誌は彼を「50 Greatest Tones of all Time」の一人に選出している[1]。彼はPBSの音楽番組「Austin City Limits」のシーズン2に1977年に出演している。 ブキャナンはアーカンソー州オザーク
初期の経歴
ブキャナンは,1958年にチェス・レコードからリリースされたデイル・ホーキンスのMy Babeでギターを担当しデビューを果たした[4]。その2年後には,デイル・ホーキンスの元を離れトロントに移り,彼のいとこのロニー・ホーキンスのバンドに加わった。ブキャナンはロニー・ホーキンスのシングル"Who Do You Love?でベースを担当した[6]ほか,バンドのギタリストであったRobbie Robertsonに影響を与えた。程なくしてブキャナンはアメリカに戻ったが,ロニー・ホーキンスのグループはその後ルーツ・ロックのグループザ・バンドとして名声を博した[7]。
1960年代初めには,ブキャナンは様々なロックバンドにサイドマンとして加わり,フレディ・キャノンやメルレ・キルゴーレ,ボビー・グレッグなどとレコーディングを行った。1960年代終わりには,家族を養うため,音楽業界を離れ商業を学んだほか,美容師の見習いとなった[4]。一方で,1970年代初期にはワシントンD.C.やメリーランド,バージニア近郊で人気のあったダニー・デンバーのバンドと共に活動しており,またソロとしてもワシントンD.C.近郊で評判を集めていた。
ブキャナンは,1961年に豊かなギターサウンドを収めたシングルMule Train Stompをスワン・レコード
レコーディング
1968年にワシントンD.C.でのザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの公演を訪れた際,ブキャナンが指とテレキャスターで苦労して鳴らし,自身の代名詞となっていたいわゆるワウサウンドを,ヘンドリックスがペダルを用いて出しているのを目の当たりにし,ブキャナンは衝撃を受けた。これをきっかけに,ブキャナンは自身の典型的なアメリカンスタイルのギター奏法に改めて集中することとなった[7]。
ブキャナンにエクスペリエンスの公演チケットを渡した写真家のジョン・ゴセージは,ブキャナンがヘンドリックスの1967年のデビュー盤アー・ユー・エクスペリエンスト?にとても感銘を受けていたため,チケットを渡すことにしたという。ゴセージはステージ裏へ行き,ヘンドリックスに公演後にThe Silver Doller Clubでブキャナンに会ってみるよう勧めたが,ヘンドリックスは結局姿を見せなかった。ブキャナンは,その夜にもヘンドリックスの曲を数曲演奏するなど,ヘンドリックスのことを評価していたという。ブキャナンは後に,ヘンドリックスが作曲したIf 6 Was 9や,彼のヒット曲であるHey Joeのカバーをレコーディングしている。
ブキャナンの名前は,1971年にPBSの1時間ドキュメンタリーIntroducing Roy Buchanan(The Best Unknown Guitarist in the Worldと誤用されることもある)が放送されたことで,全米に知れ渡ることとなった。その結果,ブキャナンはポリドール・レコードとの契約を手にし,ジョン・レノンやマール・ハガード(英語版)から賞賛を受けた。さらに,ローリング・ストーンズからは加入の誘いを受けたが,ブキャナンはこれを断り,「ストーンズを転ばせた(断った)男」としても知られるようになった[9]。1977年には,ブキャナンはPBSの音楽番組Austin City Limitsのシーズン2に出演した。
彼は5枚のアルバムをポリドールで収録し,そのうちSecond Albumはゴールドディスクを獲得した[10]。その後アトランティック・レコードからは3枚のアルバムをリリースし,1977年のLoading Zoneで再びゴールドディスクを得ている[2][11]。ブキャナンは1981年にの録音を最後に,自身の音楽を自分のやり方で録音できない限り,スタジオには二度と入らないと宣言した[9]。