ロイ・ジョーンズ・ジュニア
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ロイ・ジョーンズ・ジュニア
Roy Jones Jr.
ロシア首都モスクワにて(2012年)
基本情報
本名Roy Levesta Jones Jr.
通称Junior(ジュニア)
Superman
RJ
Captain Hook
階級クルーザー級
身長180cm
リーチ188cm
国籍 アメリカ合衆国
ロシア(2015年市民権取得)
誕生日 (1969-01-16) 1969年1月16日(55歳)
出身地フロリダ州ペンサコーラ
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数76
勝ち66
KO勝ち47
敗け10
引き分け0
無効試合0
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獲得メダル
アメリカ合衆国
男子 ボクシング
オリンピック
1988 ソウルライトミドル級

ロイ・ジョーンズ・ジュニア(Roy Jones Jr.、1969年1月16日 - )は、アメリカ合衆国の元男性プロボクサーフロリダ州ペンサコーラ出身[1]。元WBA世界ヘビー級王者。元IBF世界ミドル級王者。元IBF世界スーパーミドル級王者。元WBAスーパー・WBC・IBF世界ライトヘビー級統一王者。ボブ・フィッシモンズに続き、ミドル級出身でヘビー級の王座を獲得した史上2人目のボクサー。ミドル級、スーパーミドル級ライトヘビー級、ヘビー級の4階級を制覇し、長きに渡りパウンド・フォー・パウンド最強と目されていた名選手[2]。プロモーターとしてロイ・ジョーンズ・ジュニア・ボクシング・プロモーションズを主宰している[3]
人物

ボクシング史上最高の身体能力を持つ選手との呼び声が高い。重量級としては破格のスピードを活かしたイマジネーション溢れる攻撃が特徴で、瞬間を捉える能力は他の追随を許さなかった。防御勘にも長けており、腕を後ろに回してラッシュをかわしたり、余裕を見せ試合中に対戦相手を煽ったりと客の心を掴む術も一流だった。また、手数は単発傾向にあるものの、オフェンスは的確で多彩であり、特にジャブとダイレクトブローが冴え、飛び込みざまの左フック、顔面とボディの急所を的確に打ち抜くコンパクトなコンビネーションを得意としていた。

ボクシング以外のスポーツにも優れ、ユナイテッド・ステイツ・バスケットボール・リーグ(United States Basketball League、米合衆国の独立リーグ)でプレーしていたことがあり、バスケットボールの試合に出場した日の夜にボクシングの試合に出場して世界王座を防衛したこともある。また選手活動と並行して、ミュージシャンとして複数のヒップホップCDをリリース(歌い手だけでなく「Body Head Entertainment」という音楽レーベルを経営していたこともある)したり、HBOのボクシング中継番組ワールドチャンピオンシップボクシングの解説やプロモーターとして自身のボクシング興行会社を主催するなど多彩な才能を持つ。
来歴

ボクサーの家系に生まれる。父親のロイ・ジョーンズ・シニアもマービン・ハグラーと対戦経験があるプロボクサーだった。
アマチュア時代

1988年10月2日、ソウルオリンピックライトミドル級に出場。決勝戦で地元・韓国の朴時憲と対戦。2Rには一つスタンディング・ダウンを奪い、有効打も86対32と圧倒した[1]ものの、不可解な判定により2-3で負けて銀メダリストとなった[1]モロッコウガンダウルグアイの審判は韓国選手支持の判定を行ったが、モロッコの審判はこの時の判定についてアメリカ選手が勝つのは確実と思ったため自分が韓国選手支持の判定をしても4-1でアメリカ選手が勝つだろうと思い開催国に配慮した判定をしたと語った[1]。なおこの時の審判3人はつたない判定を理由にその後2年間の資格停止処分を受けた[1]。同年9月にモスクワで行われた世界選手権の審判13人も同様の理由で資格停止となった[1]。文句なしの勝利を確信していたジョーンズは泣き崩れ、記者会見でも泣きながら「盗まれた金メダルを返してほしい」と訴えたことから、「盗まれた金メダル事件」として知られる。ジョーンズは、オリンピックボクシングの最優秀選手に贈られるヴァル・バーカー・トロフィーを授与されている(通常は金メダルを獲得した選手に贈られる)。翌年この試合の審判5人のうち3人が韓国に買収されていたことが、国際アマチュアボクシング連盟(AIBA)が開いた会議で暴露されている。この採点問題は、アマチュアボクシングの採点システムが変更されるきっかけとなった。
プロ時代

1989年5月7日、プロデビュー。

1993年5月22日、プロキャリア22戦目で自身初の世界タイトルマッチとして、バーナード・ホプキンスIBF世界ミドル級王座決定戦で対戦。12回判定で下し、王座獲得。試合前に右手を骨折した状態で試合に臨んでおり、試合当日の体重はホプキンスより16ポンド重かった。同王座は1度防衛後に返上し階級を上げた。

1994年11月18日、IBF世界スーパーミドル級王者ジェームズ・トニーと対戦。戦前の予想ではわずかにジョーンズの不利予想となっていたが、3回にダウンを奪うなど圧倒し、12回大差の判定(119?108、118?109、117?110)で下し、王座獲得。2階級制覇に成功した。初敗北を喫したトニーは後日、インタビューで減量苦で計量直前まで利尿剤と下剤を使って減量をしておりコンディションが最悪だったと語っている。同王座は5度防衛後に返上。

1996年11月22日、WBC世界ライトヘビー級暫定王座決定戦でマイク・マッカラムを12回判定で下し王座を獲得し、3階級制覇を達成した。後に正規王者に昇格。ジョーンズはこの試合でファイトマネーを280万ドル、マッカラムは75万ドル稼いだ。

1997年3月21日、モンテル・グリフィンと対戦。8回終了時の判定で75-76、77-75、76-75とジャッジ2者がジョーンズ支持、1者がグリフィン支持と、ジョンズがわずかにリードしていたが、9回グリフィンがダウンしたところに攻撃してしまったために失格負けとなり初防衛に失敗、王座陥落とともにプロキャリア初黒星となった。

1997年8月7日、WBC世界ライトヘビー級王者モンテル・グリフィンとダイレクトリマッチで対戦。左フックで開始早々18秒でグリフィンをロープに吹っ飛ばして最初のダウンを奪い、最後は左アッパーで倒し1回2分31秒KOで下し、王座を奪回。ジョーンズとグリフィンの両方が150万ドルのファイトマネーを稼いだ。

その後、ヘビー級転向を表明したものの、翌1998年にヘビー級転向を撤回。ジョーンズのヘビー級転向表明を受けて、同年3月21日に空位となったWBC世界ライトヘビー級王座決定戦でマイケル・ナンに判定勝ちを収めたグラシアノ・ロッシジャーニをWBCはWBC世界ライトヘビー級王座の新王者に認定したが、ジョーンズがヘビー級転向を撤回するとWBCはWBC世界ライトヘビー級王座をジョーンズに戻し、ジョーンズをWBC世界ライトヘビー級正規王者とし、ロッシジャーニをWBC世界ライトヘビー級暫定王者とする措置を取った為、ロッシジャーニがWBCを訴え訴訟問題に発展した。

1998年7月18日、WBA世界ライトヘビー級王者のルー・デル・バーレと王座統一戦を行い、8Rにキャリア初のダウンを喫するも12回3-0(118-109×2、119-109)の判定勝ちを収めWBA王座の獲得とWBC王座の初防衛に成功し、WBAとWBCの王座を統一した。

1999年6月5日、IBF世界ライトヘビー級王者のレジー・ジョンソンと王座統一戦を行い、12回3-0(3者共120-106)の判定勝ちを収めWBA王座は3度目、WBC王座は4度目の防衛に成功、IBF王座の獲得に成功し3団体の王座を統一した。

2000年5月13日、WBA世界ライトヘビー級暫定王者リチャード・ホールと対戦し、11回1分41秒TKO勝ちを収めWBAは団体内王座統一による5度目、WBCは6度目、IBFは2度目の防衛に成功した。しかし、試合後のドーピング検査で禁止薬物のアンドロステンジオンの陽性反応が検出された。

2001年1月、WBAからWBA世界ライトヘビー級スーパー王座に認定された。


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