ロイ・エイカフ
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ロイ・エイカフ
Roy Acuff
1950年
基本情報
出生名ロイ・クラクストン・エイカフ
Roy Claxton Acuff
別名キング・オブ・カントリー・ミュージック(カントリー界の王)[1]
生誕 (1903-09-15) 1903年9月15日
出身地アメリカ合衆国テネシー州メイナードビル
死没1992年11月23日(1992-11-23)(89歳)
アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビル
ジャンルカントリー, ゴスペル
職業シンガーソングライター
担当楽器フィドル
活動期間1936年 - 1992年
レーベルコンケラー、オーケー、コロムビア
著名使用楽器
フィドル

ロイ・クラクストン・エイカフ (Roy Claxton Acuff, 1903年9月15日[2] - 1992年11月23日) は、アメリカ合衆国カントリー・ミュージック歌手、フィドル奏者、プロモーター。「キング・オブ・カントリー・ミュージック」(カントリー界の王)として知られ、弦楽器を主体としたストリング・バンドや、フォークダンススクウェアダンスの伴奏となるホーダウンの様式から、スター歌手を主体とする様式への変遷に尽力し、世界的な成功に導いた。

1930年代に音楽のキャリアを開始し、歌手として、あるいは彼のバンドであるスモーキー・マウンテン・ボーイズのフィドル奏者として地域的に有名になった。1938年、『グランド・オール・オープリー』に出演するようになり、1940年代終盤には音楽家としての人気に陰りが見え始めたが、40年近く『オープリー』の中心人物およびプロモーターの1人であり続けた。1942年、テネシー州ナッシュビルを基盤とする初のメジャーなカントリー・ミュージック出版社エイカフ=ローズ・ミュージックフレッド・ローズと共に創立し、ハンク・ウィリアムズロイ・オービソンエヴァリー・ブラザーズなどと契約した。1962年、エイカフは存命人物で初めてカントリー・ミュージック殿堂に殿堂入りした[3]
目次

1 経歴

1.1 生い立ち

1.2 初期の音楽キャリア

1.3 グランド・オール・オープリー

1.4 政治的活動

1.5 キャリア終盤


2 レパートリーおよびレガシー

3 ディスコグラフィ

3.1 アルバム

3.2 シングル

3.3 ゲスト・シングル


4 脚注

5 外部リンク

経歴
生い立ち テネシー州メイナードビルのエイカフ生誕地近くのテネシー歴史委員会による看板

テネシー州ユニオン郡メイナードビルにて父サイモン・E・ニール・エイカフと母アイダ(旧姓カー)のもとに5人きょうだいの3番目として生まれた[4]。エイカフ家は郡内でも極めて著名な一家であった。父方の祖父コラム・エイカフはテネシー州上院議員、母方の祖父は地元の医師であった。父親はバプテスト教会牧師およびフィドルの名手、母親はピアノの名手で、エイカフが幼い頃は地元の人々がエイカフ家によく集まっていた。その集まりでエイカフは顎に農機具をのせてバランスを取ってみせ、客を楽しませた。彼は若い頃にハーモニカジャー・ハープの演奏方法を学んだ[5][6]

1919年、一家はメイナードビルの数マイル南にあるテネシー州ノックスビル近郊のファウンテン・シティに転居した[5]。エイカフはセントラル高等学校に通学し、学内の教会のクワイアで歌った[7]。当時は音楽よりもスポーツに興味があった。1925年の卒業後、カーソン・ニューマン大学の奨学生をオファーされたが、これを断った。彼はノックスビル周辺のいくつかの野球団で活動し、アルバイトをし、時々殴り合いのケンカをした[3]

1929年、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)傘下のマイナーリーグノックスビル・スモーキーズのトライ・アウトに参加した[6][7]。春の日差しによる日射病で何度も倒れ、早々に野球を諦めた。1930年、神経衰弱を患い数年間闘病した[5]。のちに、日光が全くだめだったと語った[7]。療養中、エイカフはフィドルの腕に磨きをかけ、日が暮れてから自宅のポーチで演奏することもあった。父親はフィドリン・ジョン・カーソン、ギド・タナーなど地域的に有名なフィドル奏者のレコードをエイカフに与え、彼の初期の演奏スタイルに多大な影響を与えた[7]
初期の音楽キャリア

1932年、アパラチア南部で薬の行商「メディスン・ショー」を行なっていたドクター・ハワーはエンターテイナーの1人としてエイカフを雇った[5]。効能には疑いがあるが、様々な症状に対する薬をハワーが売るために大勢の客を引き付けるのが目的であった[6]。行商中、エイカフはアパラチアの著名なバンジョー奏者クラランス・アシュリーと出会い、エイカフがのちにレコーディングすることとなる『朝日のあたる家』、『Greenback Dollar 』を習った[8]。行商にはマイクがなかったため、エイカフは騒音の中でも聞こえるほどの大声で歌えるようになり、のちのラジオ放送での歌唱に役立った[6]

1934年、エイカフは行商を離脱し、ノックスビル近辺で様々なミュージシャンとのライヴに出演するようになった。同年、ギター奏者のジェス・イースタデイとハワイアン・ギター奏者のクレル・サミーがエイカフと共にテネシー・クラッカージャックスを結成して地元ラジオ局で演奏するようになったが、給料未払いによりエイカフは局と口論することがあり、WROL局とWNOX局を行ったり来たりした[5]。1年以内にベース奏者のレッド・ジョーンズを加え、クレイジー・テネシアンズと改名した[7]。弦楽器がかき鳴らしても彼の声はとてもクリアであった[6]。1936年、『The Great Speckled Bird 』の演奏が人気を博し、アメリカン・レコード・コーポレーション(ARC)と契約することとなり、『Wabash Cannonball 』など多くの曲をレコーディングした[6]。20曲をレコーディングする契約になっており、「バン・ボーイズ」という偽名を使って『When Lulu's Gone 』など問題作2作をレコーディングした[9]


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