ロイヤル・フュージリアーズ連隊
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ロイヤル・フュージリアーズ連隊(英語:Royal Regiment of Fusiliers)は1968年に編成されたイングランド歩兵連隊であり、大型連隊(Large regiment)と呼ばれるタイプの連隊である。大型連隊は複数の1?2個大隊編成の連隊を統合して複数大隊編成としたもので、イギリス陸軍に於いて20世紀後半から編成されるようになった新しいタイプの連隊である。ロイヤル・フュージリアーズ連隊は現存する歩兵の大型連隊の中ではロイヤル・アングリアン連隊に次いで古い。連隊番号は元の連隊の番号を繋げて、”第5, 6, 7, 20歩兵”とされる。
沿革ロンドン塔のウォータールー兵舎にある、ロイヤル・フュージリア連隊博物館。ベリーにあるランカシャー・フュージリアーズの戦争記念碑。

1957年:当時3個あったイングランドのフュージリア連隊、ロイヤル・ノーサンバーランド・フュージリアーズ(第5)とロイヤル・フュージリアーズ(第7)及びランカシャー・フュージリアーズ(第20)を集めて、フュージリア旅団(Fusilier Brigade)が編成された。

1963年:ロイヤル・ウォリックシャー連隊(第6)が同旅団の傘下に入り、フュージリア連隊となった。

1968年:フュージリア旅団傘下の4個のイングランド・フュージリア連隊が統合されてロイヤル・フュージリアーズ連隊が発足した。旧連隊は麾下の第1?4大隊となり、国防義勇軍(TA)部隊として第5大隊が編成された。第5大隊の各中隊は各正規大隊の募兵地域を担当していた。
1968年の編成


第1大隊(旧第5連隊)

第2大隊(旧第6連隊)

第3大隊(旧第7連隊)

第4大隊(旧第20連隊)

第5大隊(TA)

1971年:第4大隊廃止。伝統は各大隊に分散して受け継がれた。

1994年:第3大隊が第1, 2大隊へ吸収。第5大隊は1個中隊に縮小され、ミッドランド連隊(Midlands Regiment)へ転出。同連隊A中隊となる。
1994年の編成


第1大隊

第2大隊
ロイヤル・フュージリアーズ連隊軍楽隊の制服が受け継がれているクィーンズ師団ミンデンバンド。

1994年:全陸軍の連隊及び兵科軍団の軍楽隊が分離され、陸軍音楽学校を母体として編成された陸軍音楽軍団(Corps of Army Music)の下に編入された。ロイヤル・フュージリアーズ連隊軍楽隊もそこに編入され、クィーンズ師団傘下の他の軍楽隊プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊軍楽隊及びロイヤル・アングリアン連隊軍楽隊と統合されて”クィーンズ師団ミンデンバンド”(The Minden Band of The Queen's Division)となった。クィーンズ師団ミンデンバンドの制服はロイヤル・フュージリアーズ連隊軍楽隊のものが受け継がれている。一方、プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊は国防義勇軍傘下に軍楽隊”コヒマバンド”(The Kohima Band)を残している。

2007年:第5大隊を再編成。フュージリアについては「#フュージリア」を、統合前の各連隊の歴史については「#統合された連隊の歴史」を、各連隊の名称の変遷については「#統合された連隊の沿革」を参照
概要ロンドン塔の連隊本部。イギリス歩兵連隊の募兵区分。ピンクの部分がロイヤル・フュージリアーズ連隊。バッキンガム宮殿での衛兵交代式(2008年)。

連隊本部はロンドン塔に置かれ、カーネル・イン・チーフ(Colonel-in-Chief)はケント公・エドワード、名誉職の連隊長 (Colonel)は TJ・ミンター准将(Brigadier TJ MInter OBE DL)が務めている。

募兵地域は歴史的経緯から、グレーター・ロンドンノーサンバーランドウォリックシャーランカシャーウェスト・ミッドランズとイングランド各地に点在する形になっている。

傘下の3個大隊は、2個の正規歩兵大隊がクィーンズ師団、予備役大隊が国防義勇軍の管理下に置かれている。
現在の管理系統


クィーンズ師団(Queen's Division)

プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊(Princess of Wales's Royal Regiment(Queen's and Royal Hampshires) (PWRR) )

ロイヤル・フュージリアーズ連隊

第1大隊

第2大隊


ロイヤル・アングリアン連隊(Royal Anglian Regiment)


国防義勇軍(Territorial Army(TA))



プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊第3大隊

ロイヤル・フュージリア連隊第5大隊

ロイヤル・アングリアン連隊第3大隊


各大隊麾下の一部の中隊は大隊の本拠地とは別の、バーミンガムやランカシャー 州ベリー(Bury)、或はロンドンの連隊本部や第2大隊兵舎以外の場所にもに駐屯しており、ロンドン駐在の部隊は衛兵や儀仗任務も務める。歩兵連隊はローテーションでバッキンガム宮殿の衛兵任務を務めるが、ロイヤル・フュージリアーズ連隊は2008年からその順番が回ってきている。また、2009年には第1大隊がロンドン塔の新任コンスタブル(Constable of the Tower of London)への栄誉礼を行なった。

カーネル・イン・チーフのケント公・エドワード。
ウォーリア装甲戦闘車。
第1大隊
本拠地はドイツのファリングボステル(Fallingbostel)。ウォーリア装甲戦闘車を装備した機械化歩兵。人員は700名で、3個のウォーリア中隊と本部中隊(管理・福利厚生・装備支援・補給・通信・情報・訓練支援)及び機動支援中隊(偵察・狙撃・対戦車・迫撃砲)の5個中隊から成る。大隊長は中佐で、各中隊長は少佐が務める。ドイツに展開する第1機甲師団(1st Armoured Division)麾下の第7機甲旅団(デザート・ラット)(7th Armoured Brigade(Desert Rats))に配属されている。アフガニスタンからの帰還パレード(2009年11月30日グレーター・マンチェスター州ロッチデール)。
第2大隊
本拠地はロンドンのハンスロウ(Hounslow)。軽歩兵編成で人員は600名。3個のライフル中隊と本部中隊(管理・福利厚生・装備支援・補給・通信・情報・訓練支援)及び機動支援中隊(偵察・狙撃・対戦車・迫撃砲)の5個中隊から成る。大隊長は中佐で、各中隊長は少佐が務める。第12機械化旅団(12th Mechanised Brigade)隷下に配属されている。キプロスを根拠地とした、イラク及びアフガニスタンでの任務を終え、2009年11月に帰還した。アフガニスタンに於ける6ヶ月の作戦期間中は、5月に1名が銃撃を受け、7月に1名と8月に5名のA中隊兵士が爆弾により死亡した。7人の戦死者はいずれもヘルマンド州(Helmand)をパトロール中に攻撃を受けたもので、8月の1名はイギリスの病院に運ばれたが死亡した。2009年の年末から翌年始にかけて、戦死者の追悼や遺族へのエリザベス・クロス(Elizabeth Cross)の授与、大隊隷下の部隊が駐屯するイングランド各地の町での帰還パレードが行なわれた。第2大隊は今後、2010年中にはドイツニーダーザクセン州ツェレへ、2013年にはキプロスへ駐屯する予定である。

帰還パレードの先頭を行く連隊旗。

第5大隊
訓練大隊。本拠地はダラムニューカッスル、アッシントン(Ashington)に分かれている。一部の部隊は第2大隊と共にアフガニスタンへ派遣され、帰還した。
歴史ジェームス2世ウィリアム3世ロイヤル・フュージリアーズ(7)については「#フュージリア」を、各連隊の名称の変遷については「#統合された連隊の沿革」を参照

ロイヤル・フュージリアーズの基となった第5, 6, 7, 20連隊は、いずれもジェームス2世の即位から名誉革命によって退位させられるに至る時代に設立された連隊であるが、その背景にはネーデルラント継承戦争が深く関わっており、フュージリア(Fusilier/旧い綴り:Fusileer)と呼ばれる新しい兵種が生まれたのもその頃である。

オランダ侵略戦争中の1674年、オラニエ公ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)率いるオランダ軍の下に、イギリス人部隊である”イングリッシュ旅団”(English Brigade)が編成された。イングリッシュ旅団は4個連隊で構成され、内訳はイングランド2個連隊、スコットランドアイルランドが各1個連隊であった。

1685年、モンマス公ジェームズ・スコット反乱を起こしたため、ジェームス2世はオランダからイングリッシュ旅団を呼び寄せ、トーマス・モンク(Thomas Monk)大佐とヘンリー・ベラシス(Sir Henry Bellasis)大佐に命じてこの旅団を2個歩兵連隊に再編成させた。


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