ロイス・ウェバー
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Lois Weber
ロイス・ウェバー
1916年のロイス・ウェバー
本名フローレンス・ピーツ
生年月日 (1881-06-13) 1881年6月13日
没年月日 (1939-11-13) 1939年11月13日(58歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州アレゲニー(現在の同州ピッツバーグノースサイド)
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッド
職業俳優映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンルサイレント映画
配偶者フィリップス・スモーリー
(1906年 - 1922年離婚)
ハリー・ガンツ
(1926年 - 1935年離婚)
備考
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
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ロイス・ウェバー(Lois Weber, 1881年6月13日 - 1939年11月13日)は、アメリカ合衆国女優映画監督脚本家映画プロデューサーである。1914年(大正3年)に監督作『ヴェニスの商人』を発表、初めて長篇劇映画を演出した女性監督として知られる[1]。出生名はフローレンス・ピーツ(Florence Pietz)[1]
人物・来歴

1881年(明治14年)6月13日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州アレゲニー(現在の同州ピッツバーグノースサイド)に生まれる。

長じて、同地で卓越したピアニストになるが、家出をし、歌い手としてのキャリアを求めようとニューヨーク市へと移った。実家を離れてからのウェバーは貧困の中に暮らし、街頭での福音伝道者として働き、ニューヨークやピッツバーグで説教をし賛美歌を歌った。1905年(明治38年)、ゴーモンの米国部門に演技者として入社、翌1906年(明治39年)には、同社のマネージャーであったフィリップス・スモーリーと結婚した[1]

1908年(明治41年)には、Hypocrites と題する脚本を執筆し、映画作家・アリス・ギィ=ブラシェの夫であるハーバート・ブラシェが監督した。Hypocrites は、1915年(大正4年)にウェバーが脚本を執筆し、監督し、プロデュースし、主演した映画と同一のタイトルであり、同作は、当時にしては大胆に考察された社会的主題、道徳的レッスンを目指したものであった。そのような映画と主題には、人工妊娠中絶避妊を扱った『暗中鬼』、死刑制度を扱った The People vs. John Doe、アルコール使用障害薬物依存症を扱った Hop, the Devil's Brew (いずれも1916年)等がある。主題が議論を巻き起こしたおかげで、ウェバーの監督作の多くは興行的に成功を収めた。

1916年(大正5年)には、ウェバーは、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)社内でももっとも高給をとる監督になり、同年、ロシア出身のバレリーナであるアンナ・パヴロワの映画デビュー作、ユニバーサル特作映画『ポルチシの唖娘』を監督した[2]。翌1917年(大正6年)には、自らの製作会社ロイス・ウェバー・プロダクションズを設立している。ウェバーは、当時女性でただひとり、アメリカ映画監督協会の会員であることを許されていた。この時期のウェーバーのもっとも成功した作品は、クレア・ウィンザールイス・カルハーンが主演した『汚点』である。同作は、パラマウント映画が配給した5作のウェバー作品の1作である。

1925年1月、500万ドルをかけた人気小説の映画化の焼き直しのためカール・レムリに雇われウェバーは再びユニバーサルに戻った[3][4]。毎年ユニバーサルはロン・チェイニー主演の『ノートルダムのせむし男』(1923年)、『オペラの怪人』(1925年)など巨額を投じた大作を製作していた[5]。低評価により、同年9月の再公開に合わせてウェバーとモウリス・パイヴァーが『オペラの怪人』の編集に任命された[6]

1920年代(大正10年代)に入ると、ウェバーの運命に変化を来たした。自社を手放し、1922年(大正11年)には虐待とアルコール依存に溺れるスモーリーと離婚するに至り、ウェーバーは神経衰弱を患うことになる。ハリー・ガンツと1926年(大正15年)に結婚したが、1935年(昭和10年)には離婚している。手がけた最後のサイレント映画は、1927年(昭和2年)に発表した『歓楽地獄』と The Angel of Broadway であった。

最後の監督作は1934年(昭和9年)の White Heat で、砂糖プランテーション農場における異人種(白人と非白人)間結婚の話であった。同作はほとんど収入を得られず、その後のウェバーはユニヴァーサル社でスクリプト・ドクターの仕事を見つけるくらいしか仕事はなくなってしまった。

1939年(昭和14年)11月13日カリフォルニアロサンゼルス市ハリウッドで死去した。満58歳没。財産もなく、子どもももたなかった。映画産業への貢献を称え、ハリウッド大通り6518番地のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を刻んだ。
おもなフィルモグラフィShoes (1916年)

特筆以外は監督である[1][7]。アンソニー・スライドによれば現存作品は17作である[8]

『日本の田園詩』 A Japanese idyll : 1912年(現存[8]

Suspense : 1913年(現存、英国映画協会が修復中[8]) - 主演およびフィリップス・スモーリーと共同で監督

False colours : 1914年(断片が現存[8]

It's no laughing matter : 1915年(断片が現存[8]

Hypocrites : 1915年(現存[8]

『覆面の義人』 Captain Courtesy : 1915年

毒流』 Shoes : 主演メアリー・マクラレン、1916年(断片が現存[8]

『暗中鬼』 Where Are My Children? : 1916年(現存[8]

The People vs. John Doe : 1916年

ポルチシの唖娘』 The dumb girl of Portici : 主演ロイス・ウィルソン(英語版)、1916年(現存[8]

Hop, the Devil's Brew : 1916年 - フィリップス・スモーリーと共同で監督・主演

The Flirt : 主演マリー・ウォールキャムプ、1916年 - フィリップス・スモーリーと共同で監督


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