レールトラック
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レールトラック
Railtrack
種類株式会社
市場情報ロンドン証券取引所(上場廃止済み)
本社所在地 イギリス
ロンドン
設立1994年
業種陸運業
事業内容鉄道インフラストラクチャーの管理
代表者ジェラルド・コーベット CEO
特記事項:2002年破綻
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レールトラック(英語: Railtrack)は、設立された1994年4月から2002年までの間、イギリスの鉄道網のほとんどの線路信号機トンネル踏切鉄道駅を所有してきた企業グループである。レールトラックはロンドン証券取引所に上場し、FTSE100種総合株価指数の構成銘柄でもあったが、2002年10月3日、鉄道網の所有者であったレールトラックPLCは親会社のレールトラック・グループplcによって配当を目的としない保証有限責任会社であるネットワーク・レールへ売却され、後にネットワーク・レール・インフラストラクチャーへ改称された。

レールトラック・グループplcはRTグループへ改称し、現在任意解散の手続き中で2008年中の株主への最終清算支払い完了まで存続する。
概要

レールトラックはイギリス国鉄の民営化によって設立された。イギリスの鉄道網のインフラストラクチャーを所有し、列車運行会社に対して線路を貸し出して線路使用料を受け取り、線路の保線作業などの請負会社に対してメンテナンス作業を発注することを主な業務としていた。費用を削減して政府から受け取る補助金を次第に削減し、最終的には利益を出す会社となることを目指し、株式上場も行った。しかし鉄道を過度に機能ごとに細分化してしまい、会社間の複雑な契約関係や連携不足を生じ、さらにレールトラック自身に技術的なことを把握できる人間がいなかったことから、事故の多発と鉄道網の大混乱を招く結果となり、最終的に会社は破綻することになった。イギリスの鉄道網はより公的管理を強めたネットワーク・レールに引き継がれて、レールトラックは清算されることになった。
歴史
設立レールトラックの保線用車両

保守党政権時のイギリス国鉄民営化の法律により設立され、レールトラックは1994年4月1日から鉄道網のインフラストラクチャーの管理を担当し、1996年6月に株式上場した[1]

1997年のサウスオール事故[2]、1999年のラッドブルック・グローブ列車衝突事故[3]という2つの致命的な事故により、鉄道を機能別に分割したことが安全や保守作業に与えた影響について疑念が呈されるようになった。

1999年2月、社債発行を行いそのため株価はかなり下落した[4]

レールトラックは、その鉄道網を改善する業績と安全実績の両面で厳しく批判された。その設立から1998年末まで、レールトラックに対して改善の確約をさせる方針を採った初代の鉄道規制官 (Rail Regulator) のジョン・スウィフト (John Swift) 法廷弁護士と比較的良好な関係を築いていた。しかし批判では、鉄道規制官は十分強力ではなく、結果として会社がその独占的地位を乱用したとされている。特にその顧客である旅客・貨物列車運行事業者は、レールトラックの鉄道網管理責任を改善させ線路の改良を進めさせるために会社に対して法的強制措置を取ろうと必死であった。スウィフトは1993年に保守党の運輸大臣ジョン・マグレガー (John MacGregor) によって指名された。1997年5月の総選挙で労働党が政権を取って、新しい運輸大臣(副首相兼任)のジョン・プレスコットはかなり厳しい路線をとった。スウィフトの5年の任期が1998年11月30日に切れると、彼は再指名されなかった[5]。スウィフトの主任経済アドバイザーで有能な代理であったクリス・ボルト (Chris Bolt) が、1999年7月に新しい鉄道規制官が着任するまで一時的に鉄道規制官の地位を務め、その後新任の規制官の5年の任期が始まり、かなり厳しい規制の時代が始まった[6]

新しい鉄道規制官トム・ウィンザー (Tom Winsor) は1993年から1995年までスウィフトの相談役であり、より干渉して積極的に規制するアプローチを採用した[7]。レールトラックはその業績を改善する圧力に抵抗して、この時期関係は荒れたものとなった。2000年4月にはガーディアン紙で「レールトラックは鉄道規制官に対して意図的に反抗する文化がある」と報告されている[8]。当時のレールトラックの社長ジェラルド・コーベット (Gerald Corbett) とウィンザーは明らかに互いにとても異なるものの見方をしていた。レールトラックは業績を改善する法的な措置に対して抵抗し、そして鉄道規制官はより深く検査を行ったため会社の鉄道網の管理に重要な欠点があることが明らかにされた[9]

2000年10月17日に起きたハットフィールド脱線事故は、レールトラックの崩壊が決定付けられた瞬間であった[10]。これに続いてイギリス中の鉄道網で実施された大きな修繕作業はおよそ5億8000万ポンドを必要としたと見積もられている。クリスティアン・ウルマー(Christian Wolmar、『折れたレール』[11](Broken Rail)やOn the Wrong Lineなどのイギリス国鉄民営化の問題を指摘した本を著したジャーナリスト)によれば、レールトラックの経営陣はこの事故の余波でパニックになっていたという[12]。イギリスの鉄道における工学的な技術の多くは保守・更新会社に分割されてしまっていたため、レールトラックにはこれからどれくらいハットフィールドのような事故が発生する恐れがあるのか分からず、またレールトラックが命じた速度制限の結果がどうなるのかを見積もることもできなかった。この制限により鉄道網はほとんど行き詰ってしまった[13]

この大きな問題に取り組み解決する会社の能力に深刻な欠点があることが明らかになって、法的な規制や顧客からの圧力は強まり、会社の株価は急速に下がり始めた[14]レールトラックによって保守されている橋を示す標識


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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