レース(英語: lace)は、手芸の一分野で1本または何本かの糸を用い、すかし模様の布状にしたものの総称である。漢字を当てて線帯や麗糸とも表記された[1][2]。
狭義には、ニードルレースとボビンレースを指し、これはヨーロッパを中心としたレースの伝統をもつ地域では一般的である。ニードルレースとボビンレースは、中世ヨーロッパでは「糸の宝石」と呼ばれるほど珍重され、貴族がこぞって買い求めた[3][4][5]。
広義のレースは、刺繍レース、鉤針編みレース、棒針編みレース、タティングレース、フィレレースなどを含み、これは主に19世紀以降にレース技術が伝わった地域で一般的である。日本においては手芸の分類としてレース編みと一まとめに表現しているが、実際には織る・結ぶといった方法で作られるレースも「レース編み」として表現されることが多く、注意が必要である。厳密には、単に「レース編み」と言えば、ふつう「クロッシェレース」(かぎ針編みレース)を指す。他はタティングレース・ボビンレース等と、区別して表記することが一般的である。レース技法に対する認識の低さは、日本においては政府が1870年代に横浜に設立したレース教習所が唯一の教習所であったこと、他のアジア各国のような手作りレースの輸出産業が発展しなかったことに起因する[6]。
以下、中世貴族と共に繁栄したレースの歴史と、現代の日本で「レース」と呼ばれている技術について述べる。
歴史「ヴェネツィアンレース」、「フランスのレース」、「フランドル地方とレース」、「イギリスのレース」、「スペインのレース」、「ドイツのレース」、「デンマークボビンレース」、「ロシアのレース」、「チェコとスロバキアのレース」、「アジア諸国とレース」、および「中南米諸国とレース」も参照
紀元前1500年頃のエジプトでは、網状のレースや刺繍レースが使用されていた。古代ギリシア人やローマ人たちは、糸や金糸でトーガやペプラムを美しく飾った[7]。また、日本の唐招提寺に現存する「方円彩糸花網」(ほうえんさいしかもう)は、8世紀半ば以前に中国で制作されたもので、ヨーロッパのニードルポイントレースに極めて類似した技術で作られている[8]。このことは、ユーラシア大陸の東西それぞれに技術が伝播したことを示している。
15世紀頃までには、フランドル(現在のオランダの一部、ベルギー西部、フランス北部)やイタリアのヴェネツィアで、ボビンに糸を巻いてブレードを編む方法が考案されていた。15世紀までのヨーロッパでは、レースは実用的な用途に用いられる飾り紐のようなものであり、家庭の中で作成されていた。レースが装飾的なものに変化したのは、16世紀に入ってからである[3][4][5]。
15世紀末から16世紀初頭にかけてのイタリアのヴェネツィアにおいて、ドローンワークやカットワークから、レティセラやニードルレースが考案された。一方、ヴェネツィアやフランドルにおいて、飾り紐やブレードからパスマン(ブレードを組んで作ったレース)やボビンレースが発展した[3][4][5]。
当時、イタリア製のレースは国外でも注目され、イタリアで流行したレースはヴェネツィアの商人によって、ヴェネツィアンレースとしてイギリス、フランス、スペイン、ドイツなどへ持ち込まれていた[3][5]。イギリス国王エリザベス1世はのレースの衿を好んで用いた[3][4]。
フランスでは、1533年、アンリ2世と結婚したフィレンツェのカトリーヌ・ド・メディシスによってイタリアのレースが紹介され、さらに姪のマリー・ド・メディシスがアンリ4世と結婚し、レースの需要が高まった[3][5]。レースの購入費が海外へ流出するのを防ぐため、王侯・貴族以外は使用を禁止された[3][4][5]。そのため、フランスでは17世紀中期、ルイ14世の宰相ジャン=バティスト・コルベール公爵の重商主義の一環として、国営の製造所でポワン・ド・フランスが作られた[3][4]。しかし、良質の麻が取れたとの理由でまもなくベルギーにレース作りの拠点が移った。そして、生産性向上の欲求のため、18世紀にフランドル地現ベルギー)でボビンレースが発展した[3][4]。
1707年に書かれた詩により、イングランドのメアリー2世がタティングレースの愛好家であったことが推測されている。