レース_(手芸)
[Wikipedia|▼Menu]
フェルメール作:『レースを編む女』。ボビンレースを織る女性を描いている。

レース(英語: lace)は、手芸の一分野で1本または何本かの糸を用い、すかし模様の布状にしたものの総称である。漢字を当てて線帯や麗糸とも表記された[1][2]

狭義には、ニードルレースボビンレースを指し、これはヨーロッパを中心としたレースの伝統をもつ地域では一般的である。ニードルレースボビンレースは、中世ヨーロッパでは「糸の宝石」と呼ばれるほど珍重され、貴族がこぞって買い求めた[3][4][5]

広義のレースは、刺繍レース、鉤針編みレース、棒針編みレース、タティングレースフィレレースなどを含み、これは主に19世紀以降にレース技術が伝わった地域で一般的である。日本においては手芸の分類としてレース編みと一まとめに表現しているが、実際には織る・結ぶといった方法で作られるレースも「レース編み」として表現されることが多く、注意が必要である。厳密には、単に「レース編み」と言えば、ふつう「クロッシェレース」(かぎ針編みレース)を指す。他はタティングレース・ボビンレース等と、区別して表記することが一般的である。レース技法に対する認識の低さは、日本においては政府が1870年代に横浜に設立したレース教習所が唯一の教習所であったこと、他のアジア各国のような手作りレースの輸出産業が発展しなかったことに起因する[6]

以下、中世貴族と共に繁栄したレースの歴史と、現代の日本で「レース」と呼ばれている技術について述べる。
歴史「ヴェネツィアンレース」、「フランスのレース」、「フランドル地方とレース」、「イギリスのレース」、「スペインのレース」、「ドイツのレース」、「デンマークボビンレース」、「ロシアのレース」、「チェコとスロバキアのレース」、「アジア諸国とレース」、および「中南米諸国とレース」も参照

紀元前1500年頃のエジプトでは、網状のレースや刺繍レースが使用されていた。古代ギリシア人やローマ人たちは、糸や金糸でトーガやペプラムを美しく飾った[7]。また、日本唐招提寺に現存する「方円彩糸花網」(ほうえんさいしかもう)は、8世紀半ば以前に中国で制作されたもので、ヨーロッパのニードルポイントレースに極めて類似した技術で作られている[8]。このことは、ユーラシア大陸の東西それぞれに技術が伝播したことを示している。

15世紀頃までには、フランドル(現在のオランダの一部、ベルギー西部、フランス北部)やイタリアヴェネツィアで、ボビンに糸を巻いてブレードを編む方法が考案されていた。15世紀までのヨーロッパでは、レースは実用的な用途に用いられる飾り紐のようなものであり、家庭の中で作成されていた。レースが装飾的なものに変化したのは、16世紀に入ってからである[3][4][5]

15世紀末から16世紀初頭にかけてのイタリアのヴェネツィアにおいて、ドローンワークやカットワークから、レティセラニードルレースが考案された。一方、ヴェネツィアやフランドルにおいて、飾り紐やブレードからパスマン(ブレードを組んで作ったレース)やボビンレースが発展した[3][4][5]

当時、イタリア製のレースは国外でも注目され、イタリアで流行したレースはヴェネツィアの商人によって、ヴェネツィアンレースとしてイギリスフランススペインドイツなどへ持ち込まれていた[3][5]。イギリス国王エリザベス1世はのレースの衿を好んで用いた[3][4]

フランスでは、1533年アンリ2世と結婚したフィレンツェカトリーヌ・ド・メディシスによってイタリアのレースが紹介され、さらに姪のマリー・ド・メディシスアンリ4世と結婚し、レースの需要が高まった[3][5]。レースの購入費が海外へ流出するのを防ぐため、王侯・貴族以外は使用を禁止された[3][4][5]。そのため、フランスでは17世紀中期、ルイ14世の宰相ジャン=バティスト・コルベール公爵重商主義の一環として、国営の製造所でポワン・ド・フランスが作られた[3][4]。しかし、良質のが取れたとの理由でまもなくベルギーにレース作りの拠点が移った。そして、生産性向上の欲求のため、18世紀にフランドル地現ベルギー)でボビンレースが発展した[3][4]

1707年に書かれた詩により、イングランドメアリー2世タティングレースの愛好家であったことが推測されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef