レ・ディタリア_(装甲艦)
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レ・ディタリア (Re d'Italia) はイタリア海軍の舷側砲門艦[1]。一等装甲スクリュー・フリゲイト[2]レ・ディタリア級。艦名はイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のことである[3]。1866年7月20日のリッサ海戦で沈んだ。

ニューヨークのWilliam H. Webbに1861年8月に発注[4]。同年11月21日起工[1]。1863年4月18日進水[1]。1864年3月12日に竣工し、4月にイタリアに到着した[4]。1864年9月14日[1]や9月18日竣工[2]とも。

常備排水量5610トン、満載排水量5869トン、全長326フィート9と1/2インチ (99.61m)、垂線間長275フィート (83.82m)、幅55フィート (16.76m)[1]。または常備排水量5700トン、長さ84.3m、幅16.6m[5]。もしくは常備排水量5700トン、全長99.6m、垂線間長84.3m、幅16.6m、吃水6.7m[2]。蒸気往復動機関1基、角缶4基搭載[6]、1軸推進で速力10.6から10.8ノット[1]、または12ノット[7]。船体は木製で、舷側の装甲は厚さ120mm[2]、または最大4フィート4と3/4インチ[1]。帆装は三檣バーク[2]。舵は防護されていなかった[3]衝角を有する[6]

兵装は72ポンド(8インチ)砲6門と164mm砲32門[1]。または203mm72ポンド滑腔砲4門、200mm施条砲2門、164mm32ポンド施条砲32門[3]。もしくは203mm施条砲2門、203mm72ポンド滑腔砲4門、164mm施条砲30門[2]。リッサ海戦時にはアームストロング8インチ200ポンド前装施条砲2門、7インチ160ポンド前装施条砲30門、72ポンド前装滑腔砲4門を搭載していた[7]とも。

1866年6月20日、イタリアはオーストリアに宣戦布告し第3次イタリア独立戦争が始まる。7月16日、ペルサーノ提督率いるイタリア艦隊はアンコーナからリッサ島へ向け出撃した[8]。「レ・ディタリア」はペルサーノの旗艦であった[9]。7月18日、艦隊はリッサ島に到着し、攻撃を開始[10]。Port St. Giorgioの砲台との交戦で「レ・ディタリア」は砲台の弾薬庫を爆発させた[11]

7月20日、オーストリア艦隊が現れ、リッサ海戦が始まる。海戦直前、ペルサーノは旗艦を「レ・ディタリア」から「アフォンダトーレ」に変更したが、そのことは艦隊内に伝わっていなかった[12]。海戦では旗艦とみられた「レ・ディタリア」は4隻のオーストリア艦に囲まれ、舵機に被弾して前進か後進しかできなくなった[13]。前方をオーストリア艦にふさがれ、またオーストリア装甲艦「Erzherzog Ferdinand Max」が向かってくるという状況で艦長Faa di Brunoは後進を命令[14]。ほぼ停止したところで「Erzherzog Ferdinand Max」の体当たりを受け、「レ・ディタリア」は沈没した[15]

Faa di Bruno以下382名[3]、または381名が死亡[16]。もしくは408名が死亡し、159名が救助され、18名がリッサ島に泳ぎ着いた[17]
脚注^ a b c d e f g h Conway's All the World's Fighting Ships 1860-1905, p. 338
^ a b c d e f 『イタリア戦艦史』、11ページ
^ a b c d "Capital Ships of the Royal Italian Navy", p. 338
^ a b "The Re d'Italia", p. 308
^ "The Re d'Italia", pp. 308-309
^ a b 『イタリア戦艦史』、105ページ
^ a b "The Re d'Italia", p. 309
^ Ironclads at War, p. 223, Batlleships in Action Vol.1, p. 48


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