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レンナート・トルステンソン
Lennart Torstenson
生誕 (1603-08-17) 1603年8月17日
死没 (1651-04-07) 1651年4月7日(47歳没)
スウェーデン王国、ストックホルム
所属組織スウェーデン軍
最終階級陸軍元帥
墓所リッダルホルム教会
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オルタラ伯レンナート・トルステンソン(Lennart Torstenson Greve av Ortala、1603年8月17日 - 1651年4月7日)は、スウェーデンの将軍。三十年戦争後半のスウェーデン軍を率いた。砲兵将校出身ながら陸軍元帥まで上り詰めた、当時としては稀有な人物である。 1603年8月17日、トルステンソンはエルヴスボリ要塞の司令官トルステン・レンナートソンの息子に生まれた。15歳になるとグスタフ2世アドルフの近習となった。1621年から開始されたリヴォニア侵攻で初陣を経験し、リガ攻略にも加わった。続くスウェーデン・ポーランド戦争にも参加、この頃、グスタフ・アドルフはしばしばトルステンソンを直属の伝令将校
生涯
近習から将校へ
トルステンソンの軍人としての資質を物語る逸話として次のようなものがある。ある戦いで伝令に派遣されたトルステンソンは、敵軍が動きを変えたため、王の命令が状況にそぐわないものであることに気がついた。そこでトルステンソンは自身の判断で命令を変更し、グスタフ・アドルフの下に戻ってそのことを報告した。王はトルステンソンの判断の正しさを認め、「レンナート、この命があるのは君のおかげだ。君は近習よりも将軍の装束の方が相応しい」と言ったという。1628年、ポーランド戦の功績が認められ、トルステンソンは中佐に昇進、連隊の指揮を任された。 1630年、スウェーデンは三十年戦争に介入してドイツへ侵攻、スウェーデン戦争が開始された。この年、トルステンソンは大佐に昇進し、砲兵隊の指揮を任された。1631年、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン軍は皇帝軍を撃破、続くレヒ川の戦いでも勝利した。これら一連の戦いでトルステンソンは砲兵の指揮を執り、勝利に大きく貢献した。1632年、トルステンソンは将軍に昇進。しかし、アルテ・ベステで皇帝軍の捕虜となり、2年間にわたってインゴルシュタットに投獄された。この獄中生活でトルステンソンは体を壊し、その後亡くなるまで病躯に苦しめられた。1634年、開放されたトルステンソンは軍に復帰し、ヨハン・バネール
三十年戦争
1635年、フランスがスウェーデンと同盟を結んで三十年戦争に介入、フランス・スウェーデン戦争が開始された。スウェーデン軍は東ドイツに侵攻、1636年10月4日、ヴィットストックの戦いで皇帝軍を破った。