この項目では、第二次世界大戦のプログラムについて説明しています。
オーストラリアの企業については「en:Lendlease
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年3月)
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。レンドリース法イギリスと中国に援助を与えるレンドリース法案に署名するフランクリン・ルーズベルト大統領
レンドリース法(レンドリースほう、英語: Lend-Lease Acts)、または武器貸与法(ぶきたいよほう)は、アメリカ合衆国が1941年から1945年にかけて、イギリス、ソビエト連邦(ソ連)、中華民国(中国)、フランスやその他の連合国に対して、イギリスの場合はニューファンドランド、バミューダ諸島、イギリス領西インド諸島の基地を提供することと引き換えに、膨大な量の軍需物資を供給するプログラム[要曖昧さ回避]のことである。
1939年9月の第二次世界大戦勃発から18ヵ月経過した1941年3月に開始された。総額501億USドル(2007年の価値に換算してほぼ7,000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供された。
逆レンドリース(Reverse Lend Lease)は、航空基地を提供するなど、アメリカに対するサービスで構成されている。額にして78億ドル相当で、そのうち68億ドルはイギリスとイギリス連邦諸国によって提供された。貸与条件には、貸与した物資は「返却もしくは破壊されるまで」使用できるとされていたが、実際に返却にいたった物資はごくわずかであり、ほとんどは戦争中に破壊された。レンドリース措置の終了後に到着した物資については、以降の物資については、イギリスに対して大幅に値引きされた10億7500万ポンドで、アメリカからの長期融資により売却された。カナダも同様のプログラムで47億ドル相当の物資をイギリスとソビエト連邦に提供したが、代金は支払われなかった[1]。
政治的背景(英語版)にそぐわないものであり、ジャネット・ランキン議員などの反対派もいた。
しかし、レンドリースのプログラムは、1941年3月11日のレンドリース法成立によって始まった。この法律はアメリカ合衆国大統領に対して、「その国の防衛が合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分する」ことを認めるものであった。4月にはこの政策が中国にも適用された[2]。ルーズベルト大統領は、1941年10月終わりにイギリスに対する10億ドル相当のレンドリース援助を承認した。
それ以前に、異なるプログラムとして駆逐艦・基地協定(Destroyers for Bases Agreement)が1940年に実施されていた。これは、アメリカにカリブ海とニューファンドランド島の基地使用権を認めることと引き換えに、アメリカ海軍の50隻の駆逐艦をイギリス海軍とカナダ海軍に提供するものである[注 1]。12月28日にはルーズベルト大統領が炉辺談話で「民主主義の兵器廠」(en:Arsenal of Democracy)発言を行い、連合国への支援意図を強調した。
当時の共和党下院議員のエヴァレット・ダークセンは、民主党議員65人が昼食に出かけている間に決議案を提出することで、レンドリース法案の修正案の通過を確実にすることができた。このため第(3)(c)節は「1943年6月30日までに(a)節で規定された『合衆国の防衛に寄与する』という部分がもう必要ないという両院一致決議が通過した後は、大統領または各省庁の長官は(a)節の規定を実施する必要は無い」と規定していた[3]。 フランクリン・ルーズベルトは、1941年にレンドリース管理局(the Office of Lend-Lease Administration)を設置し、製鉄企業のトップであったエドワード・ステティニアスを長官に指名した。ステティニアスは1943年9月に国務次官に就任し、銀行家のレオ・T・クローリー(Leo T. Crowley)が管理局長に就任し、続いてクローリーが長官を務める外国経済局(Foreign Economic Administration
実施
ソ連に対するレンドリース援助は通常ステティニアスにより管理されていた。ハリー・ホプキンス(Harry Hopkins)とジョン・ヨーク将軍に指揮されていたルーズベルト政権のソビエト外交委員会(Soviet Protocol Committee)は、「無条件の援助」の条項を実施することに好意的であった。1943年までは、ソ連に対する援助に反対するアメリカ人はほとんどいなかった[4]。
重要性1938年から1945年までの連合国と枢軸国の国内総生産の比率
レンドリースは第二次世界大戦において、特にアメリカ合衆国が直接参戦せず戦争の重荷が他の諸国、イギリス連邦諸国や1941年6月以降のソビエト連邦に全て掛かっていた初期には、連合国が最終的に勝利する上で重要な要素となった。アメリカは1940年から両洋艦隊法を実施し、大軍拡を行っていたが、1941年12月の真珠湾攻撃と枢軸国による宣戦布告により、大戦に参戦することになっても、新兵を募集し、訓練し、装備を整えて前線へ送り出すという作業はすぐには実施できなかった。1942年を通じて、そして1943年には少し程度が低くなるが、他の連合国諸国が戦闘の正面に立ち続け、レンドリースによる軍需物資が勝利に重要な貢献をした。1943年から1944年にかけて、イギリスの使用した弾薬の4分の1はレンドリースによるものであった。イギリスに対する援助物資のおよそ4分の1が航空機(特に輸送機)で、続いて食糧、車輌、船舶の順であった。
ヨーロッパおよび太平洋におけるアメリカ軍が勢ぞろいし始めた1943年から1944年以降であっても、レンドリースは継続された。この時期になると、主要な交戦国は前線で使われる戦闘機や戦車のような兵器についてはかなりの部分自給できていたが、このような直接戦闘用の兵器に関してもレンドリースは有用な支援をし、さらにレンドリースによる兵站支援、トラック、ジープ、上陸用舟艇、そして特にダグラスC-47輸送機[要出典]は大きな貢献をした。