この項目では、プロレスラーについて説明しています。陸上選手については「リロイ・ブラウン」をご覧ください。
"バッド・バッド"
レロイ・ブラウン
プロフィール
リングネームバッド・バッド・レロイ・ブラウン
クレージー・レロイ・ブラウン
イライジャ・アキーム
本名ローランド・C・ダニエルズ
ニックネーム黒い起重機
呪術師2世
身長196cm
体重154kg(全盛時)
誕生日1950年11月30日
死亡日 (1988-09-06) 1988年9月6日(37歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ジョージア州
チャタム郡サバンナ
スポーツ歴アメリカンフットボール
デビュー1977年
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バッド・バッド・レロイ・ブラウン("Bad, Bad" Leroy Brown、本名:Roland C. Daniels、1950年11月30日 - 1988年9月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州サバンナ出身のアフリカ系アメリカ人。
より原音に近い表記は「リロイ・ブラウン」だが、本項では来日時の呼称など、日本で定着している表記を使用する。 NFLのニューヨーク・ジェッツを経て、1977年にプロレスラーとしてデビュー[1]。日本でも人気の高いシンガーソングライター、ジム・クロウチのヒット曲 "Bad, Bad Leroy Brown"(邦題『リロイ・ブラウンは悪い奴』)をそのままリングネームに、超大型の黒人ヒールとして売り出される。 デビュー当時はフリッツ・フォン・エリックが牛耳るテキサス東部のダラス地区を主戦場に、1978年3月31日にキラー・ブルックスと組んでホセ・ロザリオ&アル・マドリルからNWAテキサス・タッグ王座を奪取[2]。ダラスではブルーザー・ブロディともスーパーヘビー級同士の肉弾戦を展開した[3]。その後はカリフォルニア南部のロサンゼルス地区に登場、1979年4月26日にチャボ・ゲレロを破ってNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得している[4]。 1979年6月、ロサンゼルス地区と提携関係にあった新日本プロレスにクレージー・レロイ・ブラウン("Crazy" Leroy Brown)の名義で初来日。アブドーラ・ザ・ブッチャー2世として注目され、パンフレットの表紙にも顔写真が掲載された[5]。来日第1戦ではストロング小林に勝利[6]。アントニオ猪木とのシングルマッチも組まれ、7月17日には釧路にて、坂口征二が保持していた北米ヘビー級王座にも挑戦した[6]。試合ではキャリア不足と不器用さを露呈したが、プレイング・マネージャー役のマサ斎藤にビール瓶で頭を殴らせるデモンストレーションは話題を集めた[7]。 帰国後はロサンゼルスに戻り、8月4日にアレン・コージと組んでマンド・ゲレロ&ヘクター・ゲレロからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取[8]。その後、11月よりエディ・グラハム主宰のフロリダ地区に参戦し、サー・オリバー・フンパーディンク率いるヒール軍団 ハウス・オブ・フンパーディンク [9]に加入してバグジー・マグローやニコライ・ボルコフと共闘。11月24日にはスウィート・ブラウン・シュガーを破りNWA南部ヘビー級王座を獲得[10]、以降も同王座を巡ってダスティ・ローデスやマニー・フェルナンデスと抗争した[11][12]。1980年下期からはビル・ワット主宰のミッドサウス地区にてアーニー・ラッドと大型黒人タッグを結成、同じくジム・クロウチの "Bad, Bad Leroy Brown" の歌詞からリングネームを取ったジャンクヤード・ドッグとの黒人抗争も行われた[13]。 1981年11月より、ジム・バーネット主宰のジョージア地区でベビーフェイスに転向。オーバーオール姿の陽気なキャラクターとなって子供達の人気を集め、ビッグ・レッドやアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘[14]。マスクド・スーパースター、スーパー・デストロイヤー、ビッグ・ジョン・スタッドらを相手に巨漢同士の大型対決を繰り広げ[15][16]、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦した[17]。1982年2月28日にはアトランタのオムニ・コロシアムで行われたNWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにロン・フラーと組んで出場したが、海外遠征中だったジャンボ鶴田&天龍源一郎に2回戦で敗退している[18]。 その後はジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区で活動。
来歴