レホボス・バスター
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レホボス・バスターRehoboth Basters
レホボス・バスターの民族旗
総人口
約3万5千人[1]
居住地域
 ナミビア
言語
アフリカーンス語英語
宗教
キリスト教
関連する民族
アフリカーナーカラードナマ人ラインラントの私生児

レホボス・バスター(アフリカーンス語: Rehoboth Basters)は、ナミビアにおける民族。略称は「バスター」。
概要

アフリカーナードイツを主とするヨーロッパからの移民である白人男性と、先住民であるコイサン人や、18世紀頃にケープ植民地を経由してナミビアへ移住した奴隷である、マレー人女性の間に生まれた混血人種である。19世紀後半以降に、同国中部のレホボスと、その周辺にコミュニティを形成する様になった。自国や南アフリカ共和国のアフリカーナーやカラードとは、言語や文化面において、深い歴史的関係を有している。

また、北ケープ州に居住する南アフリカにおける同様の混血人種も、自ら「バスター」を自称している。

「バスター」という呼称は、「ろくでなし」「落胤」を意味するオランダ語の"bastaard"という単語にに由来している。 一部の人々はこの呼び名を蔑称と捉えているものの、バスター達自身は「誇り高き名前」として再解釈して、自身の祖先と歴史を語り、否定的な意味合いにもかかわらず、同称をナミビアにおける文化の一部として扱う事を主張している[2]

1999年に第6代部族長として選出されたジョン・マクナブは、同国の憲法において、公的な地位は付与されていないものの、代表なき国家民族機構などにおける、民族代表としての公務を担う役割を果たしている。

レホボスにおける部族長協議会は、1990年の独立に伴い成立した新政府の下では、地域協議会に置き換えられる事となった。

現在のバスターの正確な人口は不明とされているが、約35,000?40,000人と推測されている。 独立後のナミビアにおいては、同国の人口の半分を占めるオヴァンボ人(英語版)が、政財界を牛耳る様になって以来、バスターの文化とアイデンティティの存続が疑問視され始めている。バスターの政治家や活動家は、オヴァンボ人による政策を自らのコミュニティに対して差別的だと主張し続けている[3]
起源

バスターは、主に白人社会に同化した混血人種の事である。 この呼称は「現地に精通した白人系住民」のコミュニティを指し、アメリカ合衆国で言うところの『ハイ・イエロー(英語版)』の様に、白人を除くケープ植民地における住民の中では、最上位の地位を保持する事となった。バスターの一部は、白人の雇用主と非白人の使用人達の間に立つ、中間管理職としての役割を担った。また、その多くは雇用主である白人男性の非嫡出子として生まれたにもかかわらず、家族同然の扱いを受けるケースが多かった。

バスターの社会には、農場主としての地位を盤石なものにするなど、ビジネスでの成功によって財を成した、混血ではないコイコイ人自由黒人も含まれていた。近似した背景を持つ民族としては、オランダ語を話し、ヨーロッパ式の生活様式を実践したカラードとコイコイ人を指すオーラム人(英語版)がいるが、一部のバスターが“オーラム”と呼ばれる事もあった。

18世紀初頭、バスターは植民地に農場を所有することが多かったが、白人の入植者が増えるにつれ、次第に土地の所有権をめぐる競争と、人種差別の圧力が強まり、政府と白人の商売敵によって抑圧される様になった。土地を手放した一部の人間は、カラードと同等の使用人になる道を選んだが、白人に屈する事を拒んだ者達は、周辺の土地へ移住し、開拓する様になった。1750年頃から、植民地の北西端にあるKamiesbergeは、農場主であるバスター達の主要な居住地となり、その一部は多くの使用人や顧客を抱える事に成功した。

1780年頃以降、同地における白人からの弾圧が激化した事に伴い、多くのバスターの世帯が、内陸部の未開拓地へ移住する事を選んだ。彼らは、オレンジ川中部の盆地に定住する事となり[4]、後にロンドン伝道協会(英語版)の宣教師から“グリクア人(英語版)”と改名する様に提案される事となった。
ナミビア中部開拓時代

1868年に、バスターはケープ植民地を離れ、北部の内陸部の土地を開拓する意向を発表し、翌1869年に最初の30世帯が同地を去った。彼等は現在のナミビア中部のナミブ砂漠カラハリ砂漠の間にある高原にあたるレホボス(英語版)に定住し、牧畜によって生計を立てる様になった。その後は、1871年から1907年までドイツ礼賢会から派遣された宣教師であるヨハン・クリスチャン・フリードリヒ・ハイデマンに仕える事となった[4]

レホボスにおけるバスターの人口は、1872年には333名にまで達した[4]。その後も、ケープ植民地に残っていた70世帯のうち、最終的には約60世帯がそれに追従する形でレホボスへ移住し、1876年までにその人口は800名までに増加した。これに伴い、「レホボス自由共和国」の建国を宣言するとともに、現在ではバスターの民族旗とされている、当時のドイツ国旗をモチーフとした国旗をデザインした。また、独自の憲法(アフリカーンス語: Vaderlike Wette)を制定・採用し、法としての効力が失われた21世紀の現在でも、バスターにとっての行動規範の核として受け継がれている[5]

1870年代に、レホボスのバスターは一貫して近隣のナマ人ヘレロによる大規模な窃盗団から度々襲撃を受け、家畜を強奪され続けた。1880年に、オーラム人の一部がヘレロに対して蜂起した事を期に、生存の為にバスターは彼等と同盟を結び、損害を被りながらも1884年頃まで抵抗を続けた。

1880年代になると、レホボスのバスター社会には、ハイデマンの手引きによって、レホボス以外に居住していた一部のバスター達が合流する様になった。
ドイツ統治時代「ドイツ領南西アフリカ」も参照


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