レフ・ヴァウェンサ
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レフ・ヴァウェンサ
Lech Wa??sa


ポーランド共和国
第2代 大統領
任期1990年12月22日1995年12月23日

出生 (1943-09-29) 1943年9月29日(80歳)
ドイツ国ダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区(現: ポーランドクヤヴィ・ポモージェ県)リプノ郡
政党独立自主管理労働組合「連帯」

ノーベル賞受賞者
受賞年:1983年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:「連帯」の結党と、民主化運動の発起に対して

レフ・ヴァウェンサ(ポーランド語:Lech Wa??sa、 [?l?x va?w??sa][ヘルプ/ファイル]、1943年9月29日 - )は、ポーランド政治家労働組合指導者、電気技師で、ポーランド共和国の第三共和政第2代大統領ノーベル平和賞受賞者。

「ヴァウェンサ」は原語での発音に基づいたカタカナ転写で、比較的新しい表記法。日本では「ワレサ」という表記が多く用いられているが、これはポーランド語アルファベットに対する誤解から生じたものである( → 詳細は下記「日本国内における表記の異同」節を参照)。
生い立ち

ヴァウェンサは、1943年9月29日、クヤヴィ・ポモージェ県リプノ郡にあるポポヴォという小さな村で生まれる[1][2]。ヴァウェンサの祖先はイタリアかフランスからの移民とされ、祖父の代には、財産を食いつぶしてしまっていた[3]。ヴァウェンサの父親はボレスワフといい、大工をして生計を立て、1930年代にはかなりの収入を得ていた[4][5][6]

ポーランド侵攻後、ヴァウェンサの土地はドイツ軍によって接収され、ヴァウェンサの父親・ボレスワフもドイツ軍によって逮捕され、強制収容所を転々とさせられ、肺炎にかかり、無事に釈放されたものの、釈放後もドイツ軍の塹壕堀に従事させられ、体調をくずし、1945年5月に死去する[7][8][9][10]

ヴァウェンサの母親は、ボレスワフの弟・スタニスワフ(ヴァウェンサから見て叔父)と再婚し、さらに3人の子供に恵まれ、7人兄妹となった[10][11] [12]。ヴァウェンサはこの継父と継父の子供とは仲が悪かった[11] [12]

ヴァウェンサは地元の小学校に進学し、成績は可もなく不可もなくという成績で、頭の回転は早いが集中力と持続力に欠けるという評価であった[13] [11] [14]。小学校卒業後は、地元を離れ、リプノ市(英語版)にある、職業訓練学校に進学する[15] [11] [14]。職業訓練校での成績も芳しくなく、可がほとんどという成績であったが、素行は悪く喫煙をするなどしていた(ただし修身の成績は良好だったという)[15] [11] [14]。ヴァウェンサには不思議と人望があり、激怒している人間もヴァウェンサにかかれば、簡単に懐柔できてしまうという不思議な魅力があった[15]

1961年に職業訓練学校を卒業し、国営農業機械センターに就職する[15] [11] [16]。国営農業機械センター就職後、電気工として優秀であった[17][11] [16]。1964年から1966年まで2年間の兵役を務め伍長の階級で退役し、1967年6月2日にはグダニスクレーニン造船所に転職する[11] [16][18]。ヴァウェンサは後に、国営農業機械センターと造船所を比較し、国営農業機械センターは、働きやすい労働環境であったが、造船所は、労働者は巨大な歯車の一つに過ぎず絶えず緊張感が張り詰めていたと述懐している[19]
政治経歴

1960年代後半頃より、ポーランド国内の経済状態は、経済政策の失策や、農業生産の不振などもあり、危機的な状況にあった[20][21]。そして、1970年12月12日土曜日、政府当局は、食肉の値上げを発表する[20][22]。土曜日に発表した理由は、ストライキが即座に発生しないように企図していた[20]。値上げ率は品目により様々であるが、4 %から92 %の値上げが行われ、そして、12月14日、グダニスクのレーニン造船所でストライキが発生する[20][22]。ヴァウェンサはストライキ時には、ストライキ運動を行う行進の先頭に立ち[23]、官製労働組合の委員を務めていた[24] [24]。ヴァウェンサはポーランド統一労働者党第一書記のエドヴァルト・ギェレクとの会合の参加者の一人となったが、会合で、発言をしようとするも遮られるなどされたため発言記録は見られない[25]。しかし、会合が功を奏し、1971年1月8日、政府は今後2年間の価格値上げを凍結することを約束する[26]

ギェレクは、その後、経済成長と生活水準の向上を国民に約束し、1971年から1975年までの5か年計画を採択し、西側の技術を取り入れるなど開放経済政策をとる[27] [28] [29]。一時的には効果が出たものの、石油ショックや西側からの莫大な借入債務によって、間もなく破綻し、1976年6月24日には再度食料品の値上げが発表される[29] [26]。食料品値上げの発表を受けて、バルト海沿岸、ワルシャワでストライキが開始される[29]。前後するが、ヴァウェンサは1976年の労働組合選挙の際に、官製労組への批判を展開する[29] [30][30]。ヴァウェンサはこれが原因で、1976年3月、造船所を解雇される[31]。造船所解雇後は、会社を転々とし、一方で公安警察からマークされながらも政府批判のビラを企業に配りまわるなどしていた[32][33][34][35][31][36]

1980年7月1日、政府は突如食肉価格の大幅値上げを発表する。その改定率は、40 %から60 %とも言われている[37]。翌日より、ストライキが開始され、ポーランド全国へと波及する[38][37]。ギェレクは、値上げを部分撤回し、労働者の賃上げを認め、ストライキ参加者の身分保障を確約し、ストライキ運動はいったん沈静化するものの、8月14日、グダニスクのレーニン造船所で1万6000人がストライキを起こす[39]。ヴァウェンサは、ストライキの指揮を執り、ヴァウェンサを委員長とするストライキ委員会は、グダニスク県委員会及び工場当局と交渉を進め、8月16日、要求が受け入れられたため、ストを解除する[39]。このとき、ヴァウェンサは独断でスト解除をしたとして、労働者から批判され、結局ストを継続した[40]。ヴァウェンサは、政府に対して21か条の要求の締結を迫った[41][42]。21か条の要求の内容は、言論の自由や政府から完全に独立した自治労働組合の設立認可などであった[43]。1980年8月31日には、ヴァウェンサとヤギェルスキ第一副首相が合意文書に調印し、21か条の要求が受け入れられる[44][41] [45]

1980年9月17日、グダニスクでの全国代表団の集会において、独立自主労働組合「連帯」の創設が決定される[44]。組合は職場に設けられ、それぞれの地域で、全国調停委員会(KKP)が選出される[44]。この委員会の議長はヴァウェンサが選出された[44]


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