レフ・トルストイ
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レフ・トルストイ
Лев Толстой

誕生レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
Лев Николаевич Толстой
1828年9月9日
ロシア帝国 ヤースナヤ・ポリャーナ
死没1910年11月20日(1910-11-20)(82歳)
ロシア帝国 アスターポヴォ
職業小説家思想家
国籍 ロシア帝国
代表作『戦争と平和』(1869年)
アンナ・カレーニナ』(1877年)
イワンの馬鹿』(1885年)
『人生論』(1889年)
『復活』(1899年)
署名
ウィキポータル 文学
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レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(: Лев Николаевич Толстой [?l?ef n??k??la(j)?v??t? t?l?stoj] ( 音声ファイル), ラテン文字表記:Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828年9月9日ユリウス暦8月28日〕 - 1910年11月20日〔ユリウス暦11月7日〕)は、帝政ロシア小説家思想家

フョードル・ドストエフスキーイワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。他の同姓の人物と区別して「大トルストイ」と呼ぶこともあるが、単にトルストイと表記した場合でも、レフ・トルストイを指すことが多い。

英語では名はレオ(Leo)とされる[注釈 1]

代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。
生涯20歳の時に撮影された写真(1848年)

トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナ[map]で、伯爵家の四男として生まれる。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、1830年、2歳のとき母親を亡くす[1]1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都であるモスクワ[map] へと転居するが、同年6月に父親をなくし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザン[map]に住む叔母に引き取られ、1841年にはカザンへと転居した[2]1844年カザン大学東洋学科に入学するが、舞踏会などの社交や遊興にふけって成績はふるわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、1847年にカザン大学を中退した[3]。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。

1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、すぐに挫折した[4]。その後、ヤースナヤ・ポリャーナで暮らしたりモスクワペテルブルク[map]で放蕩生活を送るが、この時期は様々な事柄に手を出しているもののすべてものにならなかった。その中で、1850年にはじめて小説の執筆を始めている[5]1851年コーカサスの砲兵旅団に志願して編入される(コーカサス戦争)。この時の体験は後年『コサック(英語版)』や『ハジ・ムラート(英語版)』や『コーカサスの虜 (レフ・トルストイ)(ロシア語版)』などに反映された。1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代(英語版)』がネクラーソフの編集する雑誌『同時代人』に発表され、新進作家として注目を集める。1853年クリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリ[map]で激戦の中に身をおく。セヴァストポリ包囲戦での体験は『セヴァストポリ物語(英語版)』(1855)などに結実し、のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。

退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行なった[6]ヴァイマル[map]を訪れた際の逸話がトーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(: Goethe und Tolstoi, 1923年)に記されている。パリ[map]滞在中には公開処刑を目撃し、衝撃を受けている[6]。帰国後、アレクサンドル2世による1861年農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みるが、十分には成功しなかった[7]1859年には領地に学校を設立し、農民の子弟の教育にもあたる。強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針であった[8]

1860年から1861年に、教育問題解決のため再び西欧に旅立った。この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、新作『レ・ミゼラブル』を激賞している。他にもディケンズやツルゲーネフを訪問した。1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職する[9]。同年、活動を危険視した官憲[注釈 2]の妨害により学校は閉鎖のやむなきに至った[10]が、教育への情熱は生涯変わらなかった。同年34歳で18歳の女性ソフィア(英語版)と結婚し[11]、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定めることになる。夫婦の間には9男3女が生まれた。幸福な結婚生活の中で世界文学史上に残る傑作が書かれた。トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義: Realisme)の手法を用いている。

『コサック』(1863年)では、ロシア貴族とコサックの娘の恋愛を描きながら、コサックの生活を写実主義の手法によって描写した。1863年7月18日ヴァルーエフ指令が公布されてウクライナ語での言論活動が禁じられた為、コサックが母語で文筆活動を行なえない皮肉な状況になった。

戦争と平和』(1864-69)はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々(祖国戦争[注釈 3])を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物が写実主義の手法によってみな鮮やかに描き出されている。『戦争と平和』の主人公ピエール・ベズーホフにもトルストイ自身の思索が反映している。『戦争と平和』で、トルストイはロシアの貴族社会のパノラマを描き出した。マリアの肖像画(I.K.マカロフ、1860)

アンナ・カレーニナ』(1873-77)は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、『戦争と平和』に比べより調和に富み、構成も緊密である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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