この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "レフチェンコ事件"
レフチェンコ事件(レフチェンコじけん)は、ソ連国家保安委員会(KGB)の少佐、スタニスラフ・レフチェンコが日本国内での諜報活動・間接侵略(シャープパワー)を暴露した事件。レフチェンコは1982年7月14日に米下院情報特別委員会の秘密聴聞会で工作活動を暴露。国内外に大きな衝撃を与えた。
経緯
亡命詳細は「スタニスラフ・レフチェンコ」を参照
レフチェンコはモスクワ大学東洋学研究所卒業後、漁業研究所を経てKGB入り。日本語課程などを経て1975年2月にKGB東京代表部に赴任。表向きの役職はソ連の国際問題週刊誌ノーボエ・ブレーミャの東京特派員であった。KGB東京代表部ではPR班員として積極工作(アクティブメジャーズ)に従事し、亡命直前はPR班長代理として5人の要員を使っていた。
1979年10月24日にアメリカに政治亡命した。夫人を東京に、子供一人をソ連に残したままだった。 1982年7月14日に米下院情報特別委員会(エドワード・ボーランド委員長)の秘密聴聞会で対日積極工作を暴露した。その証言内容は同年12月2日に日本国内に伝えられ、同月9日に情報特別委の報告書「ソ連の積極工作」として関係資料と共に公表された。また、同年12月10日にはレフチェンコ自身がワシントンで記者会見をしたほか[1]、アメリカのKGB研究家でリーダーズ・ダイジェスト編集委員ジョン・バロン記者により、同証言をもとに「今日のKGB―隠された魔手」が1983年5月に出版された。 レフチェンコは1981年8月に行われたソ連軍事裁判所での欠席裁判で重反逆罪による死刑を宣告されたが、1989年にアメリカ国籍を取得している。 ソ連はセミパラチンスクにおける核実験を皮切りに、ノヴァヤゼムリャにおける世界最強の核爆弾ツァーリ・ボンバの実験を行うなど積極的な核開発をすすめた(マヤーク核技術施設も参照)。また、世界最大を誇る核兵器保有数と兵力を背景に、東ヨーロッパの民主化運動(ハンガリー動乱やプラハの春)を武力で弾圧したほか、キューバ危機による第三次世界大戦や核戦争の可能性と緊張の高まりが国際社会を震撼させた。さらにアフガニスタン侵攻に起因する西側諸国のモスクワ五輪ボイコットを招いた覇権主義国かつ軍事大国であった。「対日有害活動#ロシアによる工作」、「扇動」、および「分断工作」も参照 戦前戦中にはゾルゲ諜報団・尾崎秀実らがスパイ活動や政策誘導を行い検挙されたゾルゲ事件に加え、ソ連の対日参戦や終戦後の樺太や千島列島への侵略・不法占拠(樺太の戦いおよび占守島の戦いも参照)とシベリア抑留などソ連による国際法(日ソ中立条約・国連憲章2条4項・大西洋憲章・ポツダム宣言など)違反もあり、日本国内で対ソ感情は悪化した。その後も、ラストヴォロフ事件のほか、背乗り[2]やレポ船によるスパイの日本国内への潜入、浸透工作(人民戦線戦術も参照)や数々の防衛秘密の漏洩、安保闘争や労働争議を扇動し分断工作に利用、すでに公開スケジュールが発表されていた映画の上映に対する圧力や干渉など、ソ連による間接侵略は戦後も盛んに行われていた。 また、レフチェンコ事件と前後してベレンコ中尉亡命事件や大韓航空機撃墜事件なども発生していた。 レフチェンコが在日中に担当したのは積極工作部門。政界や財界、マスコミ関係者と接触し、北方領土問題を抱え米国と同盟関係にある日本の世論や政策が親ソ的なものとなるように仕向け[3][4][5][6][7]、最終的には日米関係を損なわせること(離間工作)などを目的に、懐柔した日本人協力者を利用して様々な謀略活動を行っていた[1][8]。また、中ソ国境紛争を含む中ソ対立の最中に日中国交正常化されており、反ソ的な過激派の京浜安保共闘やML派などと思想的に近かった中国と距離を置くよう中立化させることも目的とされた。 KGB内部では積極工作の協力者のことを「エージェント」と呼び、以下4つの分類があった。
暴露
事件の背景
証言内容
レフチェンコの活動「ヒューミント」、「獲得工作」、「偏向報道」、「心理戦」、「間接侵略」、および「シャープパワー」も参照
エージェントの分類「諜報#諜報におけるエージェント」、「スパイ#分類」、および「スパイ技術#エージェント獲得」も参照