レフォルマ戦争
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レフォルマ戦争

戦争の争点となった『1857年憲法』

時1857年?1861年
場所メキシコ
結果自由主義派及びアメリカ合衆の勝利

衝突した勢力
自由主義派
アメリカ合衆国 保守派

レフォルマ戦争(スペイン語: Guerra de Reforma)とは、19世紀メキシコで起きた内戦のひとつ。

独立後の自由主義派と保守派との間の長期にわたる内戦である。
概要

自由主義派は、伝統的なローマカトリック教会と軍事的な影響力を支配を制限し、連邦制を布くことを求めた。

保守派は教会と軍事勢力が伝統的な役割と、権力を保持しつつ中央集権的な体制、君主制さえも布くことを求めた。

アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ亡命後の政府の統制の中で、自由主義者が教会と軍閥の勢力を剥ぎ取る一連の法整備を始めた時に、対立は内戦に突入した。

タクバヤの陰謀による保守派の抵抗はイグナシオ・コモンフォルト大統領を自由主義派から保守派へと鞍替えさせ、自由主義派の残党をベラクルスへ追いやった。

保守派はメキシコシティと中央メキシコを統制下においたが、残る他の地域は保守派か自由主義派かのいずれかを選んだ。

自由主義派は軍事経験に劣っていたので当初の戦闘では敗北を喫していたが、保守派軍がベラクルス攻略に二度にわたり失敗すると潮目が変わった。

1860年12月に保守派軍が降伏するまでに自由主義派軍は勝利を重ねていった。

保守派軍が戦争に敗北する頃には、ゲリラは数年間農村部で行動を維持する一方で、メキシコシティの保守派はフランスナポレオン3世と共謀し、フランスのメキシコ干渉戦争の後に、ハプスブルク家マクシミリアン大公メキシコ皇帝として擁立した。
独立後のメキシコでの自由主義派と保守派の対立

メキシコ独立戦争後、メキシコは独立戦争の10年よりも多くの時間にわたり回復に努めていた間に、強く分断された。1821年から1857年にわたり50ものことなる政権がメキシコを統治した。これら政権には独裁政権も立憲共和政も君主制も含まれていた。[1] 政治的な分裂は大体2つのグループに分かれる。すなわち自由主義派と保守派である。自由主義者の政治運動は「友愛思想」の秘密会議でのはじまった。組織の秘密性は政治的な議論を目立たないようにした。保守派はヨーロッパ式の君主制を望む多くの人々らと一元的な政府を志向した。保守派は、税制面でも法的にも免除をうけていた教会や軍が含む植民地時代から継承した組織の多くの保護を志向した。税制面でも法的にも免除をうけていた教会や軍が含まれる。自由主義者は、教会や軍の特権を制限し啓蒙時代に現れた理想に基づく、連邦共和制を志向した。レフォルマ時代の終わりまでに、メキシコの歴史は、これら二つの派閥の支配をめぐる争いと、外国の介入に対する戦闘で、同時期に占められることになった。[2] メキシコの歴史でのレフォルマ時代は1855年から1876年までと規定される。[3]
1850年代の自由主義派の興起

1850年代、自由主義者の組織はベニート・フアレスなどの下で統制された。米墨戦争旧植民地の領域のおよそ半分を喪失してから、自由主義者は優勢となった。自由主義者は教会と軍閥ことがメキシコの問題の根源だと考えていた。[3]

自由主義者は二つの内部組織を有してきた、強硬派(puros)と穏健派(moderados)である。フアレスとメルチョル・オカンポといった両組織の指導者がともに1854年ニューオリンズに亡命した時に団結し、サンタ・アンナに対してのフアン・アルバレスの蜂起を支援した。サンタ・アンナはいまのアメリカ合衆国の南西部のテキサスを喪失したことで広く非難されていた。二人は 「アユトラ綱領」と呼ばれる原則を文書にした。[3]この計画はともにメキシコからサンタ・アンナを追放できる軍事評議会をもつというものである[4]

自由主義者のメキシコでのカトリック教会のヘゲモニーへの挑戦は1850年代以前には始まっていた。国家レベルでの対策は1820年代から試みられておりバレンティン・ゴメス・ファリアス政権の改革政策は、国家と教会の統合を含む、メキシコのカトリックのアイデンティティの政治的な保護を招いた。これには「ラ・クルス」紙のようなカトリック新聞と自由主義者の政策と思想を強く攻撃する保守的な集団も含まれていた。この思想はヨーロッパの啓蒙思想にルーツを持ち、それは社会におけるカトリック教会の役割を減少させるものであった。「改革」は1830年代と1840年代に始まり、レフォルマ時代の基本法に統合された。それらは1855年から1857年の期間と1858年から1861年の期間の二つの段階を経ていた。第一段階の終わりに『メキシコ1857年憲法』が公布された。いっそうの「改革法」は進展はバレンティン・ゴメス・ファリアス政権の以降の自由主義者が保守派との内戦の勝利がはっきりしはじめたときである。 [4]
「改革(レフォルマ)法」

「アユトラ綱領」の成功は、反乱を起こしたフアン・アルバレスのメキシコ大統領にした。アルバレスは大統領になると強硬な自由主義者を重要なポストに任命していった。イグナシオ・コモンフォルトは軍事大臣、フアレスが司法大臣、ミゲル・レルゴ・デ・テハダは開発大臣、メルチョル・オカンポが外務大臣と言った風に。アルバレスが1855年の12月に引退するとコモンフォルトが大統領に就任し、改革が継続された。この自由改革法の最初は1855年に可決された。ベニート・フアレスにちなみ「フアレス法」と命名されたこの法律は聖職者の特権、特に教会の権威を、民法に従属させることで制限するものであった [5]。 これは教会を廃止するよりかは穏健な政策であった。しかし動きが国家の潜在的な部分で始まった。メキシコシティのラザロ・デ・ラ・ゴルサ大司教はこの法律を教会に対する攻撃だと非難し、聖職者らは1855年から1856年にプエブラで反乱を起こした。[6]他の法律は軍閥によって伝統的に満喫されていた特権を攻撃した。軍閥は、1820年代の皇帝アグスティン・デ・イトゥルビデ以来、メキシコ政府を牛耳ってきた。[5]

つぎの改革法はミゲル・レルド・デ・テハダにちなみ『レルド法』と呼ばれた。この新しい法律の下で、政府は教会の所有地を取り上げ始めた。[5] これは『フアレス法』よりもかなりの物議を醸すものであった。法律の目的は、土地を教会の私有財産のような法人よって保有されていた土地を、そこに住む人に都合のいいように変換することであった。それらは発展に拍車をかけ、政府は税制によって歳入を増加できると考えられた。[6] レルド・デ・タハダは財務大臣であり、彼は教会が都市と農村部の土地を多くを安い価格で売却することを要求した。もし教会が応じなければ、政府は土地を競売にかける。法律は教会は将来にわたり財産を得ることはできないとも示されていた。しかし、レルド法は教会に適用されなかった。同法はいかなる法人も土地を所有できないと示されていた。これはエヒードのような公有地の先住民の村によるものも広く定義されていた。当初エヒードは法律の適用をまぬかれていたが、最終的にはこれら先住民共同体は土地の喪失に苦しんだ。 [5]

1857年までに、「イグレシアス法(ホセ・マリア・イグレシアスの名にちなむ)」のような追加的な反聖職者法が貧民からの寄進を規制し、聖職者洗礼、結婚、葬儀、儀式の代金の受け取りを禁止した。[7] 離婚に関する条項が認められないまま、結婚は民法上の契約になった。出生、婚姻、死亡の記録は民法上の事柄になった。これにはフアレス大統領のベラクルスで生まれた息子が適用された。宗教的な祝日は減らされ、国家的な出来事のための祝日がいくつか導入された。教会外での宗教的なお祝いは禁止され、教会の鐘と聖職者の衣装の使用は公的には禁止となった。[8]

ほかの際立った改革法のひとつは「教会財産の国有化のための法律」であり、これは国中の修道院をほぼすべて世俗化するものであった。


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