この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "レビラト婚"
レビラト婚(レビラトこん)は、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。
死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことはソロレート婚という。 レビラト婚には、最初の婚姻で結ばれた両親族集団の紐帯を維持する役割があった。 歴史的にはユダヤ、パンジャブ、モンゴル族、匈奴、チベット民族などで見られた。兄弟が寡婦の権利・義務を受け継ぐ場合も含めると、世界中に広く見られる。
概要
中国では同姓不婚と儒教の観点からタブーとされ、周辺国のレビラト婚を蛮族の風習として非常に嫌った[6]。また実の兄弟の妻のみならず一門の女性を妻とするのも忌避された。例えば、劉備と同族の劉瑁の未亡人の結婚は否定的に見られた。
日本では逆縁婚、もらい婚と言う。かつては武家の間でも見られたが、儒教の価値観が浸透した江戸時代中期以降は、武家社会の人々の間では嫌われるようになっていった。しかし、庶民の間では受け入れられていた慣習であった。武家社会への配慮から、逆縁婚は1875年(明治8年)12月8日の太政官指令で禁止されたが[7]、その後成立した民法に逆縁婚の禁止規定は盛り込まれなかった。近代日本でも、夫が出征して戦死して妻が戦争未亡人となった場合に夫の兄弟と再婚する事例も散見された。これは、夫が将校でない場合は遺族年金が支給されないために、妻が経済的に困窮するのを防ぐ一面もあった。
歴史上の人物の例
ヨーロッパ
古代ギリシア、ロドスのメントルの妻バルシネは、メントルの死後、メントルの弟メムノンの妻になった。
イングランド王ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリーの兄アーサーと死別後にヘンリーと再婚した。この結婚は本来カトリックの教会法に反するものであり、教皇が特別に許可した。後にヘンリー8世は教会法に反することを理由にして逆に離婚(婚姻の無効)の許可を求めたが、政治上の理由から時の教皇がそれを認めず、イングランド国教会の成立のきっかけとなった。
ポーランド王ヴワディスワフ4世の2番目の王妃ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガは、ヴワディスワフの死後にその異母弟ヤン2世が王位を継承するに際し、ヤンと再婚して2代の王の妃となった。
ポーランド王ヤン3世ソビェスキの孫娘マリア・カロリナ・ソビェスカは、最初の夫テュレンヌ公フレデリック・モーリスと結婚から10日で死別した後、その弟シャルル・ゴドフロワと再婚した。