レバンテUD
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レバンテUD
原語表記Levante Union Deportiva, S.A.D.
愛称Les Granotes (The Frogs)
クラブカラー青とえんじ
創設年
1909年
所属リーグリーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョンプリメーラ・ディビシオン
ホームタウンバレンシア
ホームスタジアムシウダ・デ・バレンシア
収容人数26,354
代表者 キコ・カタラン
監督 パコ・ロペス
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

レバンテUD(スペイン語: Levante Union Deportiva, S.A.D.、スペイン語: [le?βante u?njon depor?tiβa])は、スペインバレンシアに本拠地を置くサッカークラブチーム。2017-18は、リーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオンに所属する。
目次

1 歴史

1.1 レバンテFC

1.2 ヒムナスティコFC

1.3 コパ・デ・ラ・エスパーニャ・リブレ

1.4 2つのクラブの合併

1.5 初のプリメーラ参戦

1.6 2度目のプリメーラ参戦以降


2 ダービー

3 タイトル

3.1 国内タイトル


4 成績

4.1 近年の成績

4.2 欧州の成績

4.3 過去の成績


5 現所属メンバー

5.1 ローン移籍


6 歴代監督

7 歴代所属選手

7.1 GK

7.2 DF

7.3 MF

7.4 FW


8 脚注

9 外部リンク

歴史

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年2月)

この節は大言壮語的な記述になっています。
Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2018年2月)
エスタディオ・シウダ・デ・バレンシア
レバンテFC

1909年、ラ・マルバリョーサのレバンテ海岸から名を取り、レバンテFCとして設立された。レバンテFCはバレンシアのサッカークラブの草分け的存在のひとつである。現在のローカルライバルであるバレンシアCFはまだ誕生していなかったが、バレンシアではカバニャルFCが1903年から活動していた。グラウンド所有者である香水業者の計画で、造船所近くのラ・プァトゥヘタでカバニャルFCとの初試合が行われた。次に使われたグラウンドも湾岸区域で、クラブは徐々に労働者階級と結びつけられて考えられるようになっていった。1919年には同年に設立されたバレンシアCFと初対戦し、0-1で敗れた。この試合はアルヒロス地区に完成した新しいグラウンドのお披露目試合であった。1928年にはバレンシア州選手権で初優勝し、クラブ初のタイトルを獲得した。
ヒムナスティコFC

パトロナート・デ・ラ・フベントゥ・オブレラ、ウニベルシタリオFCとしてプレーしていたクラブが改名し、1909年にはヒムナスティコFCが誕生した。スペイン国王のアルフォンソ13世の庇護を受け、1920年までにレアル・ヒムナスティコCFと改名した。ヒムナスティコは1920年にバレンシア州選手権で決勝に進出したが、決勝は試合そのものが行われなかった。1931年にはスペイン第二共和政が成立し、クラブ名称からレアルの単語が抜け落ちた。1934-35シーズンのセグンダ・ディビシオン(2部)は10チームから24チームに拡大され、レバンテFCとヒムナスティコは揃ってデビューした。1935年、レバンテFCはバレンシア州、ムルシア州、アンダルシア州のチームが集って行われたレバンテ海岸選手権で優勝した。さらにコパ・デル・レイではバレンシアCFとFCバルセロナを相次いで破って準決勝に進出したが、準優勝したCEサバデルに敗れた。
コパ・デ・ラ・エスパーニャ・リブレ

スペイン内戦中、レバンテFCとヒムナスティコはメディテラニアン・リーグ(地中海リーグ)に参加し、それぞれ5位と6位であった。このリーグに参加したチームはコパ・デ・ラ・エスパーニャ・リブレ(フリー・スペイン・カップ)にも参戦した。この大会はリーグの上位4クラブが参加するように意図されたものであったが、FCバルセロナがメキシコとアメリカ遠征に出発したため、結果としてレバンテFCが代わりに出場することになった。準決勝はレバンテFCとバレンシアCFとで行われ、1937年7月18日にモンジュイックで行われたバレンシア・ダービーはバレンシアCFの勝利に終わった。
2つのクラブの合併

スペイン内戦中にレバンテFCのグラウンドが破壊されたが、選手たちは無傷で残った。それと対照的に、ヒムナスティコはグラウンドは無事であったが選手の多くを失った。この結果、レバンテFCとヒムナスティコの2クラブは1939年に合併し、UDレバンテ=ヒムナスティコとして再出発を切った。合併の2年後にはヒムナスティコの名を外してレバンテUDと名を変え、ホームのユニフォームカラーにはアルスグラーナ(青とえんじ)と呼ばれるヒムナスティコのカラーが使用された。この名称とユニフォームカラーは現在も変わらず残っており、アウェーのユニフォームカラ―にはレバンテFCが当初使用していた白と黒が使われている。
初のプリメーラ参戦

プリメーラ・ディビシオン(1部)への昇格は1960年代まで待たねばならなかった。1962-63シーズンはセグンダ・ディビシオンのグループ2を2位で終え、昇格プレーオフではデポルティーボ・ラ・コルーニャを2試合合計4-2で破って初のプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。1963-64シーズンはライバルのバレンシアCFに2試合とも勝利し、10位で初のシーズンを終えた。1964-65シーズンはFCバルセロナにホームで5-1と大勝したが、リーグ戦14位となり、昇降格プレーオフでCDマラガに敗れてセグンダ・ディビシオン降格となった。1965-66シーズンから約40年間はセグンダ・ディビシオンかテルセーラ・ディビシオン(1976-77シーズン以前は3部、1977-78シーズン以降は4部)またはセグンダ・ディビシオンB(3部、1977年に新設)で過ごし、この間にセグンダ・ディビシオンBで3回、テルセーラ・ディビシオンで1回優勝した。
2度目のプリメーラ参戦以降

2003-04シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝し、49年ぶりのプリメーラ・ディビシオン昇格を果たしたが、1シーズンでセグンダ・ディビシオン降格となった。2005-06シーズンは3位となり、プリメーラ・ディビシオンに再昇格した。2006-07シーズンのホームでのバレンシア・ダービーは、リガ・ムスタファの2得点やサルバ・バジェスタとローラン・クルトワの得点で4-2と快勝した。2007-08シーズンは開幕から低迷し、7節終了後にアベル・レシーノ監督を解任したが、開幕10戦で1分9敗(3得点23失点)という有様であった。2008年1月には経営難による給料未払いが発覚し[1]、同月の移籍期間にはサヴィオクリスティアン・リガノマルコ・ストラーリなど主力5選手が放出された。


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