レバノン内戦
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レバノン内戦

内戦によって破壊されたベイルート1978年

1975年4月13日 - 1990年10月13日
場所 レバノン
発端アイン・ルンマーネ事件(英語版)
結果

ターイフ合意締結

キリスト教徒とムスリムの不均衡の是正

ムスリム側から選出される首相の権限強化

各武装勢力の武装解除(ヒズボラを除く)


PLOの追放

シリア軍の駐留とシリアの影響力増大

南レバノンでの紛争継続


衝突した勢力

交戦国
レバノン戦線


レバノン軍団

ファランヘ党

その他キリスト教徒の民兵

 イスラエル
南レバノン軍

交戦国
レバノン国民運動


レバノン共産党

進歩社会党

その他左翼やムスリムの民兵
パレスチナ解放機構
ヒズボラ
 イラン交戦国
 レバノン
UNIFIL
アメリカ合衆国
フランス
シリア
アマル
指揮官
サアド・ハッダード
メナヘム・ベギン
アリエル・シャロン
ラファエル・エイタン
アビグドル・ベンガル(英語版)ワリード・ジュンブラート
ヤーセル・アラファート
ジョージ・ハバシュ
アッバース・アル=ムーサーウィ エマニュエル・アースキン(英語版)
グスタフ・ハッグルンド(英語版)
ティモシー・ジェラティ
ハーフィズ・アル=アサド
ムスタファ・トラス(英語版)
ナビーフ・ビッリー(英語版)
死亡者数:推定120,000?150,000人
レバノンの歴史


古代レバノンの歴史

中世レバノンの歴史

近代レバノンの歴史

現代レバノンの歴史

レバノン危機

レバノン内戦

杉の革命

レバノン侵攻 (2006年)

レバノン内戦(レバノンないせん)は、レバノン1975年から1990年にかけて断続的に発生した内戦。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。また1982年から1985年にかけてのイスラエル軍と多国籍軍の出兵期間はレバノン戦争(英語版)もしくは第一次レバノン戦争と呼ばれる。
歴史的背景レバノン山脈のレバノン兵士(1861年?1914年)

歴史的にキリスト教徒の多いレバノンは、第一次世界大戦から第二次世界大戦を経て周辺のアラブ国が独立すると、中東では数少ないキリスト教徒が中心の国家となった。元来のレバノンの領域は「小レバノン」と呼ばれ、これはオスマン帝国時代にこの地を支配したイスラム教の一派ドゥルーズ派の領主(アミール)ファハル・アッディーンの支配地を根拠とする。長らくこの地域こそが真のレバノンとされたが、第一次世界大戦後、事実上の宗主国となったフランスは元来のレバノン領域(小レバノン)を大幅に越えて、「大レバノン」と呼ばれる元来シリア領域とされるベッカー高原、レバノン北部及びトリポリ市、レバノン南部をも含めて国境線を作成した。これはマロン派を含めたレバノン独立運動を阻止したいフランスの分断政策の一つであった。この事がレバノン内戦を誘引する根本的な理由となった。

こうした理由から、レバノンという国家そのものが人工的なものであり、宗派別で国民・国家の意識の濃淡が激しかった。具体的に言えば、独立運動を牽引したのはマロン派とドゥルーズ派であり、この両派はレバノンに対する帰属意識が高いといわれる。一方、イスラム教スンナ派シーア派ギリシャ正教徒はもともと小レバノンには少なく、大レバノンに多く住んでいた。彼らの生活圏は元来シリアであり、ベイルートよりもダマスカスの方に帰属意識が強かったとされる。これらに対して、比較的最近になって移住してきたアルメニア人は内戦に積極的には関わらず、中立の姿勢を貫いていた。

しかも、こうした宗派はレバノン国内では圧倒的な多数派を形成せず、いずれもがほぼ同じ配分で存在する宗派社会であった。政治的影響を懸念して、レバノンでは過去に2回しか国勢調査が行われず、フランス統治時代の第二次世界大戦中に食糧配給のために調査したものは非公開、公開がなされたのは1932年の調査のみであり、これはキリスト教とイスラム教6:5という比率であった。この時の国勢を根拠として独立時に「国民協約」と呼ばれる紳士協定が結ばれた。これは大統領はキリスト教徒、首相はスンナ派、国会議長は同シーア派というように、宗派ごとの閣僚・議席のポストを配分したものであった。これは不文協定であり、暫定的であって国勢調査に基づいて変動が行われるという条件であったが、国勢調査は行われず、ムスリム人口の増加を無視する形でこの国民協約に則った国家運営が続けられた。このことが不利な立場を強いられるムスリムの反発を買った。

また、レバノンに存在する宗派は、ベイルートを除けばそれぞれ棲み分けを行っており、集落・学校・社会風習はもとより、軍隊の各部隊までも宗派別に区分されるという有様であった。この事が統一された国民国家の発達を阻害し、国家よりも自分が所属する宗派や組織に従うという部族社会的な状態が続いた。

こうした国民意識の希薄さは、内戦におけるシリアやイランの介入を誘き寄せる事にもなった。
推移
バランスの崩壊ベイルート郊外に展開したアメリカ海兵隊員(1958年)

1958年にはアラブ民族主義の台頭を背景に、ムスリムによるレバノン紛争(英語版)が発生する。この時はアメリカ海兵隊が派遣されてすぐに鎮圧された。しかし、度重なる中東戦争、さらに1970年に発生したPFLP旅客機同時ハイジャック事件をきっかけに起きたヨルダンによるパレスチナ解放機構(PLO)追放(ヨルダン内戦、黒い九月事件)が発生すると、多数のパレスチナ難民がレバノン国内に流入。イスラム教徒数の自然増加と相まって政治バランスが崩れ始めた。国内にレバノン国軍以上の軍事力を持つパレスチナ難民の存在にマロン派からは懸念が示され、武力によって難民を追放しようという動きも出てきた。

PLOの流入の結果、流血の事態を恐れたレバノン政府は、彼らに対して自治政府並みの特権を与え、イスラエルへの攻撃も黙認する事となった(カイロ協定。1994年にイスラエル・パレスチナ間で締結された同名の協定とは別)。これは当初、極秘に取り交わされたが、マスコミに暴露された結果レバノン社会、特にマロン派に衝撃を与えた。この協定の結果、レバノン南部に「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域が確立。国軍に彼らを押さえ込む力が無かった結果の措置だったが、イスラエルには明確な敵対行動としか映らなかった。イスラエル軍空軍及び特殊部隊を動員してレバノン南部やベイルートを攻撃。当時の国軍は一定の空軍力こそ保有していたが(ミラージュ3EL戦闘機、ホーカー ハンター戦闘攻撃機を装備)、政治力学上の理由で報復する事はできなかった。この姿勢がムスリムの怒りを買う事となった。

結果、優位保守を主張するマロン派と、政治力強化を求めるムスリムおよびパレスチナ難民との間で対立が激化する。ファランヘ党[† 1]をはじめとするマロン派の武装勢力は、アメリカやソビエト連邦から様々な重火器を調達し、自派の民兵組織を強化した。また、ムスリムもPLOやシリアから軍事支援を受け入れ、アマル(シーア派)やタウヒード(スンナ派)といった民兵組織を構築していった。1970年代前半には、高級リゾートホテルが立ち並ぶベイルート港に、次々に新品の軍用車両や火砲が荷上げされるという不穏な光景が数多く見られるようになった。
内戦勃発とベイルート分裂ベイルートにおけるファタハ民兵(1979年)ベイルートに設けられたグリーン・ライン(1982年)

1975年4月13日、ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区にあったキリスト教会でファランヘ党の集会が行われていた際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達を乗せたバスが教会を通りかかり、興奮した支持者らが教会に発砲、ファランヘ党側もこれに応戦して銃撃戦に発展し、27名が死亡した[† 2]。この事件は、地名を取ってアイン・ルンマーネ事件(英語版)(またはバス虐殺事件)と呼ばれ、衝突は14?15日も続き、トリポリ等の主要都市にも拡大、100名以上が死亡するなど、不毛の内戦の始まりとなった[2]。また、同じ時期に南部の港町サイダにおいても、スンナ派の漁民とマロン派系の水産会社の間で設定した漁業権を巡って騒乱が発生した[† 3]。国軍がこれの鎮圧に乗り出したものの、武装した漁民によってヘリコプターを撃墜される事件が起こり、この騒乱もイスラム教左派を煽動する事になった。この間、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で、4月16日に一旦停戦した。しかし、5月19日深夜にベイルート東部のデクタワー地区でパレスチナ・ゲリラとファランヘ党武装グループとの戦闘が発生し、停戦は破られた。5月24日にはこの衝突の責任を取ってラシード・アッ=スルフ(英語版)首相が辞任、ヌールッディーン・アッ=リファーイー(英語版)による軍人政権が成立したが、ムスリムと左派政党が激烈な反対運動を全土に渡って展開し、僅か3日で退陣に追い込まれた。パレスチナ・ゲリラとファランヘ党との対立・抗争は、次第にファランヘ党を中心とする右派勢力と、ムスリムを中心とする左派勢力との政治的衝突という形になっていった[4]

戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであったが、マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は、対立する宗派の市民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、虐殺が頻発した[† 4]車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。当初は中立姿勢を保っていたドゥルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していく事になった。こうした事態に警察は対応できず、警官の職務放棄が相次いだ。また、政治や宗教と直接関係のない犯罪集団も跋扈し、ベイルートは無法地帯となった(PLOや各民兵組織はそれらの犯罪集団を配下に置き、彼らが強盗や誘拐の身代金などで得た金品を軍資金にしたという指摘もある)。持ち主が逃げ出して無人となった海岸沿いのホテルや観光施設は民兵組織によって占拠され、1975年10月以降、各宗派の民兵達はホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテル目掛けて銃砲撃を繰り返した(ホテルの戦い(英語版))。戦闘で廃墟となったこれらの高層ホテルは内戦後も放置され、ベイルートの風景として長く残り続けた。

こうした結果、ベイルートはムスリム・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂した。


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