レネ・グレイ
1973年
プロフィール
リングネームレネ・グレイ(レーン・ゴルト)
サージェント・ジャック・グレイ
本名ロベール・ベダール
(ロバート・ベダード)
ニックネームマスター・オブ・ザ・クロー
身長183cm
体重100kg - 107kg
誕生日 (1932-07-12) 1932年7月12日
死亡日 (2019-05-25) 2019年5月25日(86歳没)[1]
出身地 カナダ
ケベック州
ケベック・シティー
スポーツ歴アイスホッケー
デビュー1956年
引退1987年
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レネ・グレイ(Rene Goulet、本名:Robert Bedard、1932年7月12日 - 2019年5月25日[1])は、カナダ・ケベック州ケベック・シティー出身、フランス系カナダ人のプロレスラー。
第2代WWWF世界タッグ王者(パートナーはカール・ゴッチ)[2][3]。現役引退後はWWFのロード・エージェントとなり、試合のストーリー構成や選手の管理業務などバックステージで手腕を振るった[1][4]。 アマチュア時代はアイスホッケーのディフェンス選手であり、NHL入りを目指すが練習中の事故で断念、1956年に地元のケベックにてプロレスラーとしてデビュー[1]。モーリス・バションらと対戦してキャリアを積み、1960年代前半よりレネ・グレイ(Rene Goulet)のリングネームでアメリカのAWAに参戦。金髪をなびかせたフランス出身の伊達男系ベビーフェイスとして活動し、同じフランス系のバーン・ガニアともタッグを組んだ[5]。 以降、太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングや南部のフロリダ地区などNWA圏を転戦。フロリダでは1970年12月7日にグレート・メフィストからNWA南部ヘビー級王座を奪取、翌1971年1月から2月にかけてはヒロ・マツダを相手に同王座を争った[6]。同年3月31日にはマイアミビーチにて、ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[7]。 フロリダを離れた後、1971年9月よりWWWFに登場[8]。12月6日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカール・ゴッチと組み、ターザン・タイラー&ルーク・グラハムを破り第2代のWWWF世界タッグ王者となる[2][9]。その後もフレッド・ブラッシー&ジミー・バリアントなどのチームを相手に防衛戦を行い、翌1972年2月1日にキング・カーティス・イヤウケア&バロン・ミケル・シクルナに敗れるまで戴冠した[10]。 1972年6月、国際プロレスに初来日(名義は "Rene Goulet" の英語読みであるレーン・ゴルト)。ビル・ミラーやWWWFでの仇敵シクルナに次ぐ3番手外国人のポジションでストロング小林やグレート草津と対戦し、ラッシャー木村との金網デスマッチも行われた[11]。1974年5月の再来日ではセーラー・ホワイトと組み、ビル・ロビンソン&マイティ井上と金網タッグデスマッチで対戦している[12]。 アメリカではこの時期よりサージェント・ジャック・グレイ(Sgt. Jacques Goulet)を名乗ってヒールに転向し、インディアナポリスのWWAにてドン・ファーゴとザ・リージョネアーズ(The Legionnaires)なるフランス外人部隊ギミックのタッグチームを結成[13]。1974年9月21日にはウイルバー・スナイダー&ペッパー・ゴメスからWWA世界タッグ王座を奪取、1975年4月からはザリノフ・ルブーフを新パートナーにディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争した[14]。 ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのミッドアトランティック地区ではミシェル・デュボアともフランス系の悪党タッグチームを組み、1976年11月3日に行われたNWAミッドアトランティック・タッグ王座決定トーナメントでは、ティム・ウッズ&ディノ・ブラボーのチームと決勝を争った[15]。1977年にはジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦、12月13日にオレイ・アンダーソンと組んでトニー・アトラス&トミー・リッチからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している[16]。
来歴