レニャーノの戦い
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この項目では、歴史上の事件について説明しています。オペラについては「レニャーノの戦い (ヴェルディ)」をご覧ください。

レニャーノの戦い
神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟の対立中

レニャーノの戦い(Massimo d'Azeglio画、1831年)

時1176年5月29日
場所レニャーノ
結果ロンバルディア同盟の勝利

衝突した勢力
神聖ローマ帝国ロンバルディア同盟
指揮官
フリードリヒ1世
戦力
3,000人3,500人
被害者数
重大重大

レニャーノの戦い(レニャーノのたたかい、イタリア語: Battaglia di Legnano)は、1176年北イタリアロンバルディア地方レニャーノで行われた、神聖ローマ帝国ロンバルディア同盟との戦闘である。ロンバルディア同盟が勝利を収め、皇帝フリードリヒ1世による北イタリア支配の試みを頓挫させることとなった。

中世イタリアにおける教皇派と皇帝派の抗争の中に位置づけられる戦闘であるが、近代にイタリア統一運動が盛んになると「イタリアが連帯して外国支配に勝利した戦い」として評価され、「イタリア愛国主義のよりどころ」になった。
目次

1 ロンバルディア同盟

2 フリードリヒ1世の第5次イタリア遠征

3 アレッサンドリア包囲戦

4 モンテベッロ条約

5 戦闘

5.1 戦闘前

5.2 戦闘開始


6 戦闘後

7 実際の戦場

8 イタリア統一運動での言及

9 関連項目

10 参考文献

11 注釈

12 外部リンク

ロンバルディア同盟 アモス・カッシオーリ「ポンティーダの誓約」(1885年)。

ロンバルディア同盟1167年、おおむねヴェローナ同盟 (it:Lega Veronese) をもととして結成された[1]。それは神聖ローマ帝国の「バルバロッサ」ことフリードリヒ1世に対抗してロンバルディア地方の都市が相互の連帯を約束した連合であった。ロンバルディア地方の諸都市はロンバルディア地方の小さな村ポンティーダにて誓約した。

モンテ・ポルツィオの戦い でローマ教皇アレクサンデル3世が神聖ローマ帝国軍に惨敗した後、ロンバルディア同盟は反神聖ローマ皇帝の合法的な戦闘集団としては最後のものとなり、教皇からの強い後ろ盾があった。
フリードリヒ1世の第5次イタリア遠征

1174年9月、フリードリヒ1世は第5次イタリア遠征に着手した。ロンバルディア地方での間断なく続く反乱の鎮圧と教皇との不和を解決するためにである。

フリードリヒはアルプスの向こうでは8000人の騎士を率いていて[2]9月の終わりにはピエモンテに到着した。彼のいとこハインリヒ獅子公と彼の軍はいったんは帝国軍の遠征から外れた。

フリードリヒはスーザ1168年の振る舞いの雪辱を果たしたかった。9月30日彼の軍はこれを攻略し焼き払った。

彼の次の目標はアスティの町であった。彼は7日間の包囲戦で攻略している。10月には、フリードリヒ1世はついに約束していたボヘミアからの増援を受けた。フリードリヒ1世の迅速かつ猛烈な当初の成功には、辺境伯モンフェッラート侯 グリエルモ5世とビアンドラーテ伯がロンバルディア同盟を破ったからである[3]
アレッサンドリア包囲戦

「アレッサンドリア包囲戦」はフリードリヒ1世の、この遠征が雪辱戦であり、ロンバルディア同盟を完膚なきまでに叩き教皇を排除するという性格から、第5次イタリア遠征おいて重要な出来事であった。したがって次の目標はロンバルディア地方のアレッサンドリア市であった。アレッサンドリアはミラノの難民によって建設された。彼らは1162年にフリードリヒ1世の軍がミラノ市街を焼き破壊した後に逃げてきたのである[4] 。そして名前は教皇アレクサンデル3世に由来する。

どの屋根も藁ぶきだったことから「藁の都市の包囲戦」と呼ばれたこの戦いは、10月の終わりに始まった。フリードリヒの驚きと怒りに対し、帝国軍はこの町を攻略できず、門の前で冬を過ごすことになった。聖土曜日に、フリードリヒ1世の軍は塀の下にトンネルを掘って侵入しようとした。しかし、ミラノ市民によって踏みつぶされて撃退された[3]。アレッサンドリアの抵抗はロンバルディア同盟の最初の勝利であった。フリードリヒ1世は包囲を中止せざるをえなくなったし、ロンバルディア同盟軍が進軍してきたので、パヴィアまで後退した[3]
モンテベッロ条約

1175年4月16日、フリードリヒ1世とロンバルディア同盟はモンテベッロで和平交渉をすることに合意する。しかし長い会談のあと交渉は決裂し結果は出なかった[2]

フリードリヒ1世は戦闘は差し迫っていることを知っており、キアヴェンナにハインリヒ獅子公に会いに行った。しかしハインリヒはいとこの皇帝の支援を断った。彼はフリードリヒが敗れると、自分にもっと強大な力が得ることができるだろうと考えたのである[3]
戦闘
戦闘前 現代のレニャーノにおける歴史再演イベントでの「カロッキオ」

フリードリヒ1世のアレッサンドリア包囲の挫折、モンテベッロの合意の失敗、いとこのハインリヒ獅子公支援の拒絶のあと、彼はとうとうドイツから良い知らせと支援を受け取った[5]。ドイツの増援軍は1176年4月にルコマーニョ峠を横断しコモ湖地域に入った。「バルバロッサ」フリードリヒ1世、ケルン大司教フィリップ1世[6]と大司教マグデブルクのヴィッヒマン[7]とひそかにパヴィアからティチーノ川沿いに増援軍に会いに行き、これを率いて本隊と合流させた。フリードリヒ1世は1000の騎士と1000の歩兵を16のドイツ諸侯から受け取った[8]コモ湖においてロンバルディアの帝国軍は増援軍を増やし3000の騎士と3000の歩兵となった。しかし帝国軍は主としてドイツ人騎士からなる騎兵であった[5]


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