レニエ家(レニエけ、仏:Famille des Regnier, 独:Reginare)は、ロタリンギア発祥のカロリング朝時代以降から14世紀まで現在の北フランス、ベルギーおよび南オランダを領した貴族の家系。ロレーヌ公およびエノー伯、ブラバント公、ヘッセン方伯を出した。 910年、ロートリンゲン大公ゲープハルト(後の東フランク王コンラート1世の叔父)が戦死したロートリンゲン(ロレーヌ、ロタリンギア)において、エノー伯レニエ1世は親西フランク派リーダーとして、親東フランク派と対立した。最終的に親西フランク派が勝利し西フランク王シャルル3世がロタリンギア王となり、東フランク王コンラート1世はロートリンゲンにおける家領を失った。その後、ロートリンゲンでは有力者間の対立から、東西フランク両王家の戦いが再び勃発し、921年にはいったん休戦したが、西フランク王国で王位争いが勃発し混乱する中、レニエ1世の子ギゼルベルト(2世)は東フランク側につくに至った。925年にロートリンゲンを東フランク側に取り戻した東フランク王ハインリヒ1世は、ギゼルベルトを改めて正式にロートリンゲン大公に任じるとともに娘ゲルベルガを嫁がせ、関係を深めた。しかし939年、ギゼルベルトは皇帝オットー1世の弟ハインリヒを支援してオットー1世に対抗し、同年戦死した。 ギゼルベルト2世の弟レニエ2世の子孫はエノー伯を継承したが、リシルド女伯がフランドル伯ボードゥアン6世と結婚し、エノー伯位はフランドル家に渡った。 エノー伯レニエ4世の弟ランベール1世の系統はルーヴァン伯となり、周辺の伯領を併合するなどして勢力を広げていった。ジョフロワ1世は皇帝ハインリヒ5世より下ロレーヌ公に任ぜられ、子孫はブラバント公と称した。さらに1288年、ブラバント公ジャン1世はヴォーリンゲンの戦い ブラバント公アンリ2世はルードヴィング家チューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世娘ゾフィーと2度目の結婚をした。1247年、ハインリヒ・ラスペの死によりルードヴィング家の男系が断絶し、姻戚関係にあるヴェッティン家とブラバント公家との間で継承戦争が勃発した。結果として、ルードヴィング家領のうちヘッセンをブラバント公家が相続し、アンリ2世とゾフィーとの子であるハインリヒ1世がヘッセン方伯となり、以後その子孫がヘッセン領を相続した。 ギゼルベルト1世
歴史
ロートリンゲン大公
エノー伯
ブラバント公
ヘッセン方伯
系図
マーズガウ伯 エルメンガルド
(イタリア王ロタール1世娘)
レニエ1世
ルイ4世
西フランク王 ゲルベルガ
(東フランク王ハインリヒ1世娘) ギゼルベルト2世 レニエ2世 アデライード
(ブルゴーニュ公リシャール娘) フリードリヒ
マインツ大司教
ロテール
西フランク王 ハインリヒ ジュルベルジュ
=ヴェルマンドワ伯アルベール1世 レニエ3世
エドヴィジュ
(フランス王ユーグ・カペー娘) レニエ4世 ランベール1世
ルーヴェン伯 ジュルベルジュ
(下ロレーヌ公シャルル娘) モンフォール家
マティルダ
(アルデンヌ家ヴェルダン伯ヘルマン娘) レニエ5世 アンリ1世
ルーヴェン伯 ランベール2世
ルーヴェン伯 オーダ
(ロレーヌ公ゴツェロ1世娘) レニエ フランドル伯ボードゥアン4世娘 マティルダ
=ブローニュ伯ウスタシュ1世
ボードゥアン6世(1世)
フランドル伯 リシルド* エルマン アンリ2世
ルーヴェン伯 アデール
=ヴァイマール=オーラミュンデ伯オットー1世 レニエ・ド・アスノン
ヴァランシエンヌ辺境伯
フランドル家 ジェルトリュード
(フランドル伯ロベール1世娘) アンリ3世
ルーヴェン伯 ゴドフロワ1世
下ロレーヌ公(6世) リシルド*
アデライード
=ロレーヌ公シモン1世 ゴドフロワ2世
下ロレーヌ公(7世) ジョスラン アグネス・ド・パーシー
(パーシー家相続人) アデライザ
1=英王ヘンリー1世
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