レド公路(レドこうろ、ヒンディー語: ???? ???、 ビルマ語: ??????????????、中国語: 中印公路)とは、インドのアッサム州レドから中華民国の雲南省昆明までを結ぶ道路である。第二次世界大戦中にアメリカやイギリスが中華民国に軍需物資を送る援?ルートのひとつとして、1942年に日本軍に遮断されたビルマ公路と代えるため建設した。ビルマ(現在のミャンマー)のカチン州シンブイヤン(zh)とミッチーナー、バーモを通過する[1]。1945年初頭に?介石の提案で、ジョセフ・スティルウェルにちなみスティルウェル公路(中国語: 史迪威公路)と改名された。
背景「ビルマの戦い」も参照
19世紀、イギリスの鉄道事業者は、インド東部アルナーチャル・プラデーシュ州(当時はアッサム州の一部)のナムポン(en:Nampong)から、中緬国境パトカイ山脈の標高1136mのパンソー峠(en)を越える路線を調査していた。調査結果は、ビルマまで抜けてフーコン渓谷へと下りることが可能というものだった。その計画は取り下げられたものの、イギリスはパトカイ山脈を抜けてアッサムとビルマ北部を結ぶ経路に見通しを持った。イギリスの技術者たちは、最初の80マイル(約129km)の調査を終えた。
太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、イギリス勢力が日本軍によってビルマからの撤退に追い込まれると、パトカイ山脈を通る道路の建設はアメリカにとって重要度を増した。援?物資の陸揚港であるラングーン(現在のヤンゴン)が日本に占領された後、レド公路が開通するまで、中華民国への物資輸送は、ハンプ越え(en:the Hump)として知られるヒマラヤ山脈の東端を越える空路に頼るしかなくなったためである。アメリカ製の軍用トラック群は、山肌に沿って曲がりながら、ビルマまで開かれたレド公路を行く。
映像外部リンク 1942年12月1日、イギリスの極東戦線総司令官アーチボルド・ウェーヴェル将軍は、アメリカのジョセフ・スティルウェル将軍の北部戦域司令部
⇒the road from Ledo (Stilwell Road); Pangsau Pass. 8:30min. Filmed in 1942-43 by Gyles Mackrell[2]
建設作業
建設工事には、15000人のアメリカ陸軍兵士(その6割はアフリカ系アメリカ人)と35000人の現地人労働者が投入され、現地人労働者への報酬総額は1億5千万ドルに上った。工事中のアメリカ軍兵士の死者は1100人で、もっと多くの現地人が犠牲となった[5]。ビルマの大半は日本軍勢力下であったため、地形や地質、河川の特質など工事に必要な地理的情報は事前に満足に得られなかった。
スティルウェルは、工兵の権威であるレイモンド・ウィーラー(en)少将を指揮官として援助部(仮訳:Service of Supply, SOS)を創設し、レド公路建設を担当させた。