レド公路
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1944年のビルマ公路とレド公路。中華民国の生命線の再開通。1942年から1943年時点での連合軍の東南アジア戦域での連絡線。レド公路は右端。レド公路とビルマ公路。それぞれ同盟相手の国旗ジープに立てるアメリカ軍と中国軍の兵士。再開後最初の輸送車列が、ほぼ3年ぶりにレド公路を通過して中国国境を超える直前の光景。

レド公路(レドこうろ、ヒンディー語: ???? ???、 ビルマ語: ??????????????、中国語: 中印公路)とは、インドアッサム州レドから中華民国雲南省昆明までを結ぶ道路である。第二次世界大戦中にアメリカイギリスが中華民国に軍需物資を送る援?ルートのひとつとして、1942年に日本軍に遮断されたビルマ公路と代えるため建設した。ビルマ(現在のミャンマー)のカチン州シンブイヤン(zh)とミッチーナーバーモを通過する[1]1945年初頭に?介石の提案で、ジョセフ・スティルウェルにちなみスティルウェル公路(中国語: 史迪威公路)と改名された。
背景「ビルマの戦い」も参照

19世紀、イギリスの鉄道事業者は、インド東部アルナーチャル・プラデーシュ州(当時はアッサム州の一部)のナムポン(en:Nampong)から、中緬国境パトカイ山脈の標高1136mのパンソー峠(en)を越える路線を調査していた。調査結果は、ビルマまで抜けてフーコン渓谷へと下りることが可能というものだった。その計画は取り下げられたものの、イギリスはパトカイ山脈を抜けてアッサムとビルマ北部を結ぶ経路に見通しを持った。イギリスの技術者たちは、最初の80マイル(約129km)の調査を終えた。

太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、イギリス勢力が日本軍によってビルマからの撤退に追い込まれると、パトカイ山脈を通る道路の建設はアメリカにとって重要度を増した。援?物資の陸揚港であるラングーン(現在のヤンゴン)が日本に占領された後、レド公路が開通するまで、中華民国への物資輸送は、ハンプ越え(en:the Hump)として知られるヒマラヤ山脈の東端を越える空路に頼るしかなくなったためである。アメリカ製の軍用トラック群は、山肌に沿って曲がりながら、ビルマまで開かれたレド公路を行く。

映像外部リンク
the road from Ledo (Stilwell Road); Pangsau Pass. 8:30min. Filmed in 1942-43 by Gyles Mackrell[2]

建設作業

1942年12月1日、イギリスの極東戦線総司令官アーチボルド・ウェーヴェル将軍は、アメリカのジョセフ・スティルウェル将軍の北部戦域司令部(仮訳:NCAC)によるレド公路建設案を許可した。レド公路は援?ルートの主力に予定され、スティルウェルの指揮下で、鉄道端末のアッサム州レドからビルマ公路との合流点であるモンユ(芒友、en)までを建設することになった。モンユから先は、中国側の最前線である?町(ワンチン)につながり、中国領内の昆明が物資の引き渡し場所と定められた。スティルウェルの幕僚は、レド公路によってハンプ越えをはるかに上回る毎月65000トンの物資輸送が可能になると見込んでいた[3]。一方、ハンプ越えを担当しているアメリカ第14空軍クレア・リー・シェンノート将軍は、スティルウェルの見積もりは楽観的すぎると主張し、密林地帯に建設した道路で近代的な空輸と同量を運べるか疑問視していた[4]

建設工事には、15000人のアメリカ陸軍兵士(その6割はアフリカ系アメリカ人)と35000人の現地人労働者が投入され、現地人労働者への報酬総額は1億5千万ドルに上った。工事中のアメリカ軍兵士の死者は1100人で、もっと多くの現地人が犠牲となった[5]。ビルマの大半は日本軍勢力下であったため、地形や地質、河川の特質など工事に必要な地理的情報は事前に満足に得られなかった。

スティルウェルは、工兵の権威であるレイモンド・ウィーラー(en)少将を指揮官として援助部(仮訳:Service of Supply, SOS)を創設し、レド公路建設を担当させた。ウィーラー少将は、ジョン・C・アロースミス(en)大佐を現場責任者とした。アロースミス大佐は、後に、優れた工兵士官のルイス・ピック(en)大佐と交代する。

工事は、1942年12月に、レドからシンブイヤンまでの最初の103マイル(約166km)の区間で始まった。レドまでの細く険しい道に続く形で建設された道路は、パトカイ山脈をパンソー峠で越える難所を含み、このパンソー峠は地獄峠(Hell Pass)とあだ名された。ときに標高は1400mを越え、1km毎に1800立方メートルもの土砂を搬出しなければならなかった。急勾配に急カーブ、落差60mもの絶壁、周囲を囲むうっそうとした熱帯雨林が最初の区間では当たり前であった。1943年12月27日、最初のブルドーザーがシンブイヤンに到達した。予定よりも3日早い到達であった。

最初の区間の開通により、連合軍は、ビルマ北部の前線へ豊富な物資を供給できるようになった。ビルマ北部では、日本の第18師団がカマイン(en)、モガウンおよびミッチーナー(ミイトキーナ)付近に主力を展開しており、フーコン作戦にかかる戦闘が行われていた。この地域の連合軍は、アメリカ軍が養成した中国国民党軍の雲南遠征軍(X Force)が主力で、それまではパトカイ山脈越えの空輸に兵站を依存していた。連合軍は、ミイトキーナの戦い拉孟・騰越の戦いなどにより日本軍勢力圏を南へと後退させることに成功し、レド公路の延長が可能となった。シンブイヤンから先の区間は、日本軍の建設した簡易道路を拡張する形で作業が行われ、工事は容易であった。また、道路に沿って直径10cmのパイプライン2本が敷設され、輸送車列への燃料給油に使えるようになった。

シンブイヤンから先の区間は、ワラズップ(Warazup)からミッチーナーを経て、バーモ(レドから約600km)に伸びた。バーモからは旧ビルマ公路の支線に入り、レドから約700kmのナムカムを経由、レドから748km地点のモンユ(芒友)合流点でビルマ公路への接続を完了した。レドからモンユまでの間、渡った河川の数は主要なものだけで10個、小河川は155個に上り、平均すると4.5kmに1基の架橋を要したことになる。

モンユからは、右折すれば日本軍占領地内を160km南下してラシオに至り、左折して100km行けば中国国境のすぐ北にある?町(ワンチン)に着くはずである。しかし、1944年後半の時点では中国まで未開通で、代わりに新鋭輸送機で増強されたハンプ越えが多くの物資を運んでいた。

1944年後半、スティルウェルがレド公路建設を任されてから約2年を経て、フーコン渓谷のミッチーナー付近ではモンスーン被害からの復旧工事が続いていたものの、ビルマ公路への接続は一応終わった。このアッサムから昆明までの自動車道路の総延長は1736kmに及んだ。1945年1月12日、113両から成る最初の輸送車列がピック将軍に率いられてレドを出発、2月4日に昆明に到着した。開通後の半年間で、12万9千トンの物資がトラックによりインドから中国へ運ばれた[6]。また、輸送に使われたトラック2万6千台も、そのまま中国側に引き渡されている[6]

シェンノート将軍が予想した通り、レド公路を使った月間輸送量は、ハンプ越えによる空輸量を1度も上回ることがなかった[7]。終戦直前の1945年7月には、71000トンがハンプ越えで空輸されたのに対し、レド公路での陸上輸送は6000トンにとどまった。終戦までの輸送総量は、ハンプ越えの65万トンに対し、レド公路は14万7千トンに終わっている[4][7]。レド公路の本格運用以前に、ビルマ以外での作戦で対日戦は終局への道筋がついていた[3]

レド公路に設けられたレドを起点とするマイル道標は、次のとおりである[8][9]

アッサム州レド0

シンブイヤン103
ワラズップ189
ミッチーナー268
バーモ372
?町507

竜陵560
保山652
永平755
雲南驛876
楚雄959

昆明1079

東南アジア戦域連合軍司令部の総司令官であるイギリス軍のルイス・マウントバッテン大将が、飛行機に乗ってフーコン渓谷上空を飛行中、眼下を流れる「川」の名前を部下に尋ねたことがある。部下のアメリカ軍人の答えは、「あれは川ではありません。レド公路であります。」というものだった[10]
レド公路に関わったアメリカ陸軍部隊

建設開始時の投入部隊は以下の通りであった[11]


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