レディング鉄道
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レディング鉄道
Reading Company
報告記号RDG
路線範囲デラウェア州メリーランド州ニュージャージー州ペンシルベニア州
運行1833年–1976年
後継コンレール
軌間1,435 mm標準軌
本社ペンシルベニア州フィラデルフィア
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1923年の路線図

レディング鉄道(レディングてつどう、英語: Reading Railroad)、あるいはレディング・カンパニー(Reading Company)、レディング・ラインズ(Reading Lines)は南東部ペンシルベニア州およびその周辺の州で運行していたアメリカ合衆国鉄道事業者である。1924年以前は、正式名称はフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道(Philadelphia and Reading Rail RoadあるいはPhiladelphia and Reading Railway)であった。第二次世界大戦後、コール・リージョン(英語版)における無煙炭の出荷が衰退するまでは、アメリカ合衆国でも屈指の裕福な企業であった。石炭輸送の減少に加えて高速道路との競争、そして輸送が短距離であったことから1970年代に経営破綻した。鉄道は1976年にコンレールへ吸収されたが、会社自体は所有していた不動産を処分するために2000年まで存続していた。

子会社のアトランティックシティ鉄道(英語版)を通じてアトランティックシティに鉄道が伸びていたことから、アトランティックシティ周辺の事物に由来する名前を付けているアメリカ版モノポリーにレディング鉄道が登場する。ただし日本版モノポリーにおいては「リーディング鉄道」と表記されている。目次

1 歴史

1.1 フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道 1833年 - 1896年

1.1.1 1833年から1893年にかけての鉄道網拡張


1.2 フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道 1896年 - 1923年

1.2.1 レディング工場

1.2.2 旅客営業


1.3 レディング鉄道 1924年 - 1976年

1.3.1 通勤路線

1.3.2 倒産


1.4 レディング鉄道以降 1976年 -


2 経営陣

3 文化面での言及

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

歴史
フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道 1833年 - 1896年

フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道はアメリカ合衆国でも初期に建設された鉄道であった。スクーカル川の谷に建設された馬車鉄道であるリトル・スクーカル (Little Schuylkill) と並んで、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は、のちにレディング鉄道となる区間の初期の部分を建設した。当初、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は、ペンシルベニア州北東部のコール・リージョンの炭鉱から産出した無煙炭をフィラデルフィアへ輸送するために建設された[1]。当初のフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道の本線は、炭鉱の町ポッツビルから南へレディングに至り、そこからフィラデルフィアへ全93マイルの行程のほぼすべてを緩やかな勾配のスクーカル川の岸に沿って伸びていた[1][2]。フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道本線は1843年の完成時点で、アメリカ合衆国において本線としては最初の複線であった[3]

産業においても家庭においても、石炭が薪に代わる燃料となったことから、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道はすぐに利益の上がる事業となった。まもなく、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は、スクーカル川の谷やコール・リージョンにおいて多くの鉄道を買収し、あるいは借り受けた。またレディング鉄道はフィラデルフィアに、輸出用の石炭を船積みするためにポート・リッチモンドを建設した。これにより無煙炭の市場が拡大し、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道のさらなる成功の鍵となった。ポート・リッチモンドは「私有では世界最大の臨海鉄道ターミナル」であると、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は自称していた[2]。1871年、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は子会社としてフィラデルフィア・アンド・レディング石炭鉄鋼会社(Philadelphia and Reading Coal and Iron Company、のちにレディング無煙炭会社(英語版)となる)を設立し、コール・リージョンにおいて炭鉱の買収に着手した。この垂直統合によりフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は採炭から販売まで、石炭をほぼ完全に掌握することになった。

石炭への大規模な投資はすぐに効果を表した。1871年にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は資産価値1億7000万ドルとなり、世界最大の企業となった[4]。世界最初のコングロマリットであった可能性もある。1879年にはノース・ペンシルバニア鉄道(英語版)を買収し、リーハイ峡谷で発展しつつあった製鉄産業へも鉄道が伸びていった[2]

デラウェア・アンド・バウンド・ブルック鉄道(英語版)を1879年に掌握し、またポート・レディング鉄道(英語版)を1892年に建設することでニューヨークへ到達し、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道はさらに自身の「石炭帝国」を拡大した。これによりポート・リッチモンドからメイ岬(英語版)を周ってニューヨーク港まで長い船舶輸送をせずに、ニューヨークへ直接鉄道とを利用して石炭を送り込むことができるようになった。

フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道が石炭に依存していたことが結果的に、1870年代に会社を没落させることになった。19世紀半ばには、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は鉄道網を拡大することに投資せずに、石炭とその輸送に投資していた。アーチボールド・マクレオド (Archibald McLeod) 率いるフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は最終的に、自社の鉄道路線を拡大し幹線鉄道となることで、より多くの利益を上げられると睨んだ。マクレオドは1891年に付近の鉄道網の支配権を握ろうと試みた。そしてリーハイ・バレー鉄道セントラル・レールロード・オブ・ニュージャージー、ボストン・アンド・メイン鉄道(英語版)などの経営を握ることに成功した。レディング鉄道は幹線鉄道となるという目標をほぼ達成するところまできたが、しかしアメリカ合衆国北東部の鉄道事業においてより競争が激しくなることを望まないジョン・モルガンなどの妨害によりこれは失敗することになった[1][5]。フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道は、その後の歴史を地域的な鉄道に甘んじることになった。
1833年から1893年にかけての鉄道網拡張 1873年の地図

フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道はスクーカル川沿いにフィラデルフィアとレディングを結ぶ路線の特許を1833年4月4日に取得した。レディングからノーリスタウンまでは1838年7月16日に、全線は1839年12月9日に開通した。フィラデルフィア側のターミナルは、州が保有するフィラデルフィア・アンド・コロンビア鉄道(英語版)のスクーカル川西岸にあり、そこからフィラデルフィア・アンド・コロンビア鉄道線上を東に走ってコロンビア鉄道橋(英語版)を渡り、市有のシティ鉄道に乗り入れて、ブロード通りとチェリー通りの南東角にあった車庫へと通じていた。

レディングからやはりスクーカル川に沿って北西へマウント・カーボン(英語版)までの延長は1842年1月13日に開通し、これでスクーカル運河(英語版)と競争できるようになった。マウント・カーボンでは、ポッツビル経由で炭鉱群へと続き、あるいは将来的にウィリアムズポートへ延長される予定となっていた、マウント・カーボン鉄道 (Mount Carbon Railroad) に接続した。


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