レッド川方面作戦
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レッド川方面作戦
Red River Campaign
南北戦争

1864年3月10日-5月22日
場所ルイジアナ州
結果南軍の勝利

衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ナサニエル・バンクスリチャード・テイラー
戦力
30,000名6,000名-12,000名

レッド川方面作戦(レッドかわほうめんさくせん、英:Red River Campaign、あるいはレッド川遠征、英:Red River Expedition)は、南北戦争中の1864年3月10日から5月22日ルイジアナ州レッド川沿いで戦われた一連の戦闘である。この作戦は北軍の先手で始まり、北軍はナサニエル・バンクス少将の30,000名の部隊、南軍リチャード・テイラーの6,000名から12,000名の部隊の間で争われた。

この作戦は元々北軍の総司令官ヘンリー・ハレックの発案であり、これを引き継いだユリシーズ・グラント中将がバンクスのメキシコ湾岸軍30,000名を使いアラバマ州モービルを占領することで、南軍の主力を包囲してしまおうという作戦に転用した。結果は北軍の惨憺たる失敗に終わり、お粗末な計画と管理の誤りによって特徴づけられ、一つの目的も十分に達成されなかった。テイラーは小さな軍隊でレッド川を守り、この戦争の中でも南軍の最も輝かしい成功の一つと考えられている。しかし、マンスフィールドの戦いでの南軍勝利の後、テイラーの直接の上官、エドマンド・カービー・スミス将軍の決断によって、テイラー軍で退却するバンクス軍を追撃する代わりにその半分を北のアーカンソー州に送ることになり、テイラーとスミスの間の反目を生み出すことになった。


レッド川方面作戦の軍隊指揮官


ナサニエル・バンクス
北軍少将

リチャード・テイラー
南軍中将


北軍の目的

北軍はこの方面作戦の開始時に3つの目的を持っていた。
テイラーが指揮する南軍部隊を潰すこと

南軍のミシシッピ圏方面軍作戦本部であるルイジアナ州シュリーブポートを占領し、レッド川より北を支配し、テキサス州東部を占領すること

レッド川沿いのプランテーションから10万樽以上の綿花を押収すること

ワシントンにおける戦略家達は東部テキサス州を占領しレッド川北部を支配すれば、テキサス州をアメリカ連合国の他の部分から切り離してしまえると考えた。テキサスは南軍が大いに必要とする銃、食糧その他の物資の供給元だった。

また、フランスナポレオン3世メキシコに送った25,000名のフランス軍がマクシミリアン皇帝の指揮下でテキサスの南軍と合流する可能性があり、南軍のミシシッピ圏方面軍に援軍を送るにはレッド川がその入り口に使われる怖れがあった。フランス軍に関しては後に事実無根であることが分かったが、ヘンリー・ハレックやエイブラハム・リンカーン大統領がこの作戦を立てるときに考慮された要素と考えられてきた。
作戦

ハレックの作戦は1864年1月に完成し、バンクスがニューオーリンズから20,000名の部隊を率いてバイユー・テッシュ地域(ルイジアナでバイユーという言葉は緩り流れる川や水流を言う)を通ってアレクサンドリアに向かい、そこでミシシッピ州ビックスバーグにいるウィリアム・シャーマンの軍隊からA・J・スミス准将指揮下の15,000名と合流することとされた。スミスの部隊をバンクスが使えるのは4月末までであり、その後は東部に派遣され他の軍事行動に使われるものとされていた。バンクスはこの合成部隊35,000名を指揮し、シュリーブポートへ向けてレッド川を遡る時にはアメリカ海軍のデイビッド・ポーター海軍准将の砲艦艦隊に支援されることになっていた。同時にアーカンソー州からはフレデリック・スティール少将の指揮する7,000名の部隊が南に向かってシュリーブポート攻撃時にバンクス軍と落ち合い、その占領後は町の守備隊となることになっていた。

この作戦は、バンクスの発案でハレックの戦略におけるシャーマンやポーターの役割を伝えるために幾らか遅れ、1864年3月初旬に行動を起こすことになった。バンクスはシャーマン、ハレックおよびポーターにデイビッド・ヒューストン少佐が作成した報告書を送り、大きな資源無しにはシュリーブポートや東テキサスの占領を維持していくことが不可能に近いことを明白に示していた。

バンクス軍の大半は大きな、訓練は行き届かない騎兵隊に伴われ、ミドル川の方向の北へ行軍することになっていた。バンクスは綿花の投機家達の同行を認め、ポーターは魅力的な海軍の戦利品である綿花を集めるためにバージを連れてきていた。

南軍の上層部は北軍の1864年春の作戦の主要標的がレッド川であるかモービルであるか、あるいはテキサス海岸であるかを決めかねていた。南軍のミシシッピ圏方面軍指揮官であるエドマンド・カービー・スミス将軍は、それでもシュリーブポート地域へ軍隊の多くを動かし始めた。
対戦した戦力北軍のA・J・スミス准将

バンクスは全軍の指揮権を持っていたが、行軍操作はウィリアム・B・フランクリン少将に代行させた。フランクリン軍は約15,000名の歩兵、5,000名の騎兵そして恐らく40門の大砲があった。シャーマンはこのとき差し迫っているアトランタ方面作戦の準備中であり、西部軍から15,000名(3個師団)と川の1個旅団をA・J・スミス准将の指揮で貸し与えた。スティールはアーカンソー州から約7,000名を連れてきていた。川の移動を伴うときは、ポーターの23隻の戦隊がおり、うち13隻の砲艦の6隻は鉄の装甲艦だった。この戦争中ミシシッピ川より西の北軍作戦では最大のものだった。

この北軍の作戦に対抗するために南軍のジョン・マグルーダー少将は、東部テキサス方面軍から大半が騎兵の部隊を派遣した。ザカリー・テイラー元大統領の息子、西ルイジアナ方面軍のリチャード・テイラー中将がこの方面作戦の戦闘の大半を指揮した。当初の部隊は15,000名だった。マグルーダーの部隊はルイジアナに到着するのが遅れた。カービー・スミスも2個師団それぞれ7,000名をルイジアナ北西部に送りテイラーを支援した。南軍の海軍も4隻の鉄装甲艦、10隻の砲艦、14隻の綿花装甲ラム、および兵士や物資を運ぶための23隻の輸送船を揃えた。
戦闘

フランクリン軍の南部ルイジアナからの行軍は3月10日に始まった。一方、A・J・スミスとその2個軍団はビックスバーグから船でシムズポートまで降った。スミス隊は終夜の行軍の後で3月14日にレッド川沿いデ・ルッシー砦を急襲して占領し、317名の南軍兵を捕虜にし、南軍で使える唯一の重量砲を捕獲した。このことで作戦の開始を報せることになった。ポーター提督はこの時大した困難も無く川を塞いでいたどでかい筏を除去できた。

テイラーはアレクサンドリアを捨てての撤退を強いられ、ルイジアナ南部と中部を北軍に渡すことになった。

A・J・スミス軍は3月20日にアレクサンドリアに到着しフランクリンの直接指揮下にあるバンクス軍と落ち合うつもりだった。しかし、フランクリン軍はやっと3月25日にアレクサンドリアに到着し、バンクス自身は軍隊とは分かれて動いていたが、さらに1日遅れた。バンクスがスミス軍と落ち合うために折りよく到着できなかったことは、この作戦の間バンクストその部下の間に大きな不和を生じさせた兵站上の多くの誤りの始まりだった。

スミスはバンクスの到着を待つ間の3月21日に、ジョセフ・モーワー准将をアレクサンドリアからは上流のヘンダーソンヒルにあるテイラーの前哨基地に派遣して、テイラー軍の多くの騎兵と基地を捕獲した。

バンクスはアレクサンドリアに到着すると重要な伝言が待っていた。2週間前の3月12日、ユリシーズ・グラント将軍が北軍の総司令官に指名され、ハレックと交代していた。グラントの伝言では、「貴方の遠征の主目的を放棄することになったとしても」、A・J・スミス軍が4月半ばまでにシャーマンのところへ戻されなければならないので、「できるだけ早くシュリーブポートを奪取することが重要」であると告げていた[1]

カービー・スミスは80,000名近い部隊を招集していたが、この時もシュリーブポートに向かっていると分かった北軍3つの部隊に対応するためにどこへ軍隊を動かすべきか決めかねていた。テイラーはこの作戦全体で18,500名より多い部隊で戦うことは無かった。

バンクス軍は3月31日までにシュリーブポートからわずか65マイル (104 km)南のナチトチェスに到着した。フランクリン隊は雨のために1週間近くも遅れていたが、ポーター提督も機雷で覆われていたアレクサンドリアの滝をその一番重い砲艦を通すために同じくらい遅れており、問題にはならなかった。川はこの季節のいつもの水位に達していなかった。ポーターは内陸で綿花を集めるためにも時間を費やし、バンクスはその間に選挙を実行した。

このときテイラーは25マイル (40 km)北西のプレザントヒルにおり、その部隊はまだ20,000名以下だった。バンクスは多くの物資を集めると1週間後れの前進を続けた。

3月21日以降、騎兵と海軍の小競り合いが続いていた。4月2日、北軍アルバート・リー准将の騎兵師団が到着したばかりの南軍1,500名のテキサス騎兵隊と衝突した。


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