レッド・フェイバー
Red Faber1929年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地アイオワ州カスケード
アーバン・クラレンス・フェイバー(Urban Clarence "Red" Faber , 1888年9月6日 - 1976年9月25日)は、アメリカ合衆国アイオワ州カスケード出身のプロ野球選手(投手)。右投げ両打ち。
シカゴ・ホワイトソックスで20年間活躍、通算254勝を挙げた。1920年以降もスピットボールを公式に認められていた投手の一人であった。1964年にアメリカ野球殿堂入りを果たした。
経歴1914年3月9日。世界周遊旅行中にチームメイトのトム・ダリー(左)と1929年。フェイバーの豪快な投球フォーム
1909年にMLBのピッツバーグ・パイレーツと契約し、傘下マイナーリーグで投手としてキャリアを開始した。
1911年に右腕を負傷し、その際にチームメイトからのアドバイスを参考にスピットボールを習得した[1]。
シカゴ・ホワイトソックスのチャールズ・コミスキーオーナーがニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー監督との雑談中に提案をして実現した1913年10月からのジャイアンツとホワイトソックスの合同の世界周遊野球チームに参加し、好投した[2]。
世界周遊から帰国した後の1914年4月17日に移籍先のホワイトソックスでMLBデビュー。同年は40試合に登板して10勝9敗・防御率2.68の成績を残した。
翌1915年は24勝14敗・防御率2.55を記録した。
1917年には防御率は1.92にまで下がった。同年のワールドシリーズでは全6戦中4戦に登板して計3勝を挙げ、特に第4戦から第6戦までは3連投して2勝を挙げる活躍をしてチームをワールドチャンピオンに導いている。また、同年9月のダブルヘッダー2試合とその翌日の試合に連続して先発登板し3試合連続で先発登板している。これ以降はMLBで3試合連続先発登板は行われず、2012年にザック・グレインキーが記録するまで95年間行われなかった。ただし、グレインキーは1試合目の投球数は4球で、2試合目と3試合目の間にオールスターゲームがあったため、8日のインターバルがあった[3]。
第一次世界大戦が終盤に差し掛かった1918年シーズン中にアメリカ海軍に従軍した。
1919年は腕や足首の故障があった上に当時世界的に流行していたスペインかぜ(インフルエンザ)にも苦しみ、一時的に数週間解雇されてしまった[1]。
1920年はフェイバーにとっても激動の年になる。この年からいわゆるライブボール時代に突入して投手が軒並み成績を落とす。フェイバーは投手側の救済処置によってスピットボールを投げる事が認められた17投手のうちの一人であった。同年にエディ・シーコット、レフティ・ウィリアムズ、ディッキー・カーと共に史上初の20勝カルテットを形成した。しかしケネソー・ランディスコミッショナーによって、シーコットとウィリアムズは翌1921年にブラックソックス事件のため、カーは1922年に給与カットに不満を持ってチームからの放出を要求したために永久追放処分を科された。3人の先発投手を短期間に失った中で、フェイバーは1920年から1922年にかけて3年連続で20勝以上を挙げ、うち1921年と1922年は最優秀防御率のタイトルを獲得する活躍を見せている。
1931年から1933年までリリーフ投手として3年連続で40試合近く登板した。
1933年に球団側が提示した年俸3分の1カットの翌年の契約プランに激怒して他球団への移籍を望んだが認められず、45歳で現役を引退した[1]。
1946年から1948年までホワイトソックスの投手コーチを務めた[1]。
1964年にベテランズ委員会による投票でアメリカ野球殿堂入りを果たした。
1976年9月25日にイリノイ州シカゴにて死去。88歳没。 年
詳細情報
年度別投手成績
度球
団登
板先
発完
投完
封無
四
球勝
利敗
戦セ
h
ブホ
h
ル
ド勝
率打
者投
球
回被
安
打被