レッド・バスチェン
[Wikipedia|▼Menu]

レッド・バスチェン
1956年
プロフィール
リングネームレッド・バスチェン
フライング・レッド・バスチェン
テキサス・レッド
本名ローランド・バスチェン[1]
ニックネーム赤毛の悪魔[2]
身長183cm[3]
体重110kg(全盛時)[3]
誕生日1931年1月27日[1]
死亡日 (2012-08-11) 2012年8月11日(81歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国
ノースダコタ州
ボティノ郡ボティノ[1]
スポーツ歴レスリング[1]
デビュー1950年[4]
引退1979年[4]
テンプレートを表示

ローランド "レッド" バスチェン(Rolland "Red" Bastien、1931年1月27日 - 2012年8月11日)は、アメリカ合衆国プロレスラーノースダコタ州ボティノ出身[1]

現役選手時代は技巧派のベビーフェイスとして実績を築き、引退後はプロレスラーのOB会 "Cauliflower Alley Club の会長を長年に渡って務めた[1][2]
来歴

ハイスクール時代よりレスリングのトレーニングを開始し、サーカスに出場するカーニバル・レスラーを経て、朝鮮戦争従軍後にプロに転向[1][3]。その特徴的な赤毛とアクロバティックな空中技を得意とすることから、"フライング" レッド・バスチェン("Flying" Red Bastien)をリングネームに、1950年代ミネソタイリノイなどの中西部を主戦場に活動した[1]

1960年WWWFの前身であるNWAノースイースト地区のキャピトル・レスリング・コーポレーションにおいて、ルー・バスチェン(英語版)ことルー・クラインとの兄弟ギミックタッグチーム、バスチェン・ブラザーズを結成[1]。同じく兄弟ギミックのジェリーエディのグラハム・ブラザーズやアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンファビュラス・カンガルーズを相手に、USタッグ王座を巡る抗争を展開した[5]

ルー・バスチェンとのコンビ解消後はサンフランシスコカナダバンクーバーなどの太平洋岸を経て、1967年オーストラリアジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に進出。マリオ・ミラノをパートナーに、キラー・コワルスキー&スカル・マーフィーの凶悪コンビと世界タッグ王座を争った[6]。翌1968年4月30日にはフロリダにてジョニー・バレンタインからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取している[7]。同年9月、日本プロレスに初来日。10月10日に福山にてバディ・モレノと組み、吉村道明&大木金太郎アジアタッグ王座に挑戦した[8]

1970年代前半はバーン・ガニアAWAを主戦場に、1971年5月15日、ヘラクレス・コルテス(コーテッツ)と組んでマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションからAWA世界タッグ王座を奪取[9]。同年7月23日にコルテスが自動車事故で死去してからは、8月よりクラッシャー・リソワスキーを新パートナーに防衛戦を続け、翌1972年1月20日にニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスに敗れるまでタイトルを保持した[9]

その間の1971年9月、AWAとの提携ルートで国際プロレスに来日。9月13日に大阪府立体育館、9月20日に福岡市九電記念体育館にて、ストロング小林IWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[10]。タッグではビル・ハワードをパートナーに、シリーズ開幕戦の9月7日に大田区体育館にてサンダー杉山&ラッシャー木村を破り、空位となっていたIWA世界タッグ王座を獲得するなど外国人エースとして活躍した[10][11]

AWAを離れてからは、フリッツ・フォン・エリックが運営していたテキサス東部のダラス地区で活動し、1972年3月8日にホセ・ロザリオからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取[12]。6月24日にスタン・スタージャックに敗れてタイトルを失うも[12]、同地区ではビリー・レッド・ライオンとのタッグチーム、フライング・レッドヘッズ(The Flying Redheads)でも活躍した[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef