ルイジアナ州レッドリバー郡
クーシャッタにあるレッドリバー郡庁舎
郡のルイジアナ州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1871年
郡名の由来レッド川
郡庁所在地クーシャッタ
レッドリバー郡(レッドリバーぐん、英: Red River Parish)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の北部に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は9,091人であり、2000年の9,622人から5.5%減少した[1]。郡庁所在地はクーシャッタ市(人口1,964人[2])であり[3]、同郡で人口最大の町でもある。レコンストラクション時代の1871年に、ルイジアナ州議会が創設した新郡の1つである。南北戦争以前は奴隷労働力への依存度の高い綿花栽培に基づくプランテーション経済だった。
1880年時点で郡内黒人人口は白人の2倍だった[4]。1870年代後半、白人が武力で投票所を威嚇し、州内の政治力を回復した後では、1898年の新憲法で黒人の選挙権を事実上取り上げた。元奴隷の大半は小作農や労働者として綿花栽培に携わった。農業の機械化により、黒人労働者の多くが地域を離れた。2000年の郡人口は9,622人となり、白人多数の構造になった。 レッドリバー郡およびレッド川流域は、他の田園地域にある多くの郡部と同様に、南北戦争後は敗北した南部で暴徒が力を取り戻そうとしたので、白人自警団や民兵組織の暴力に曝された。レコンストラクション時代の州議会は、共和党の力をつけるために1871年に多くの郡を創設したが。レッドリバー郡もその1つだった。 マーシャル・H・トウィッチェルは北軍の退役兵であり、バーモント州から郡内に移ってきて、地元の女性と結婚した。妻の一族の助けもあって、トウィッチェルは綿花プランテーションの経営に成功し、土地の指導者になった。1870年には共和党員として州議会議員に選出され、地元の4つの役職も自身の兄弟1人と地元出身の3人の義兄弟で埋めた。解放奴隷に地元役職の幾つかを当て、教育を促進することで、黒人からの支持を集めた[5][6]。歴史家ジミー・G・ショールマイアが著した論文『特別のカーペットバッガー:マーシャル・ハーベイ・トウィッチェル(1840年-1905年)』(非出版物)では、当時のレッドリバー郡における社会的不安定のなかでのトウィッチェルの生涯を研究している[7]。 1870年代、州内には2,000名の連邦軍が駐屯していたが、頻繁に暴力沙汰が起こった[8]。19世紀後半に農業不況が拡大し経済基盤が脆弱だったので、社会的不安を拡大し、解放奴隷も白人も生き残るために新しい労働体系を模索することになった。 論争の多かった1872年知事選挙で州内の政治的緊張が増し、数か月間も問題が解決しないままになった。民主党も共和党もそれぞれの地方役人名簿を認証した。白人民兵隊組織から生まれた白人同盟は、1874年5月に近くのグラント郡で初めて結成された。この組織はレッドリバー郡のような田園部では次第に組織力の強いものに成長していった。間もなく白人同盟の支部が州中に設立された[9]。白人同盟は役人に対して公然と暴力を使い、町から追い出したり殺した場合もあり、黒人と白人の共和党員には選挙に来られないよう圧力を掛けた[9]。 1874年8月、白人同盟はクーシャッタで6人の白人共和党員役人を辞職させ、州内から立ち去るよう命じた。同盟員は彼等が州内から立ち去る前に暗殺した。殺された者達の中の4人は、マーシャル・トウィッチェル上院議員の兄弟と3人の義兄弟だった[10]。白人同盟はまた、トウィッチェルの親戚に関わり、暴力行為を目撃していた解放奴隷の5人ないし20人をも殺害した[6][11]。 歴史家達はこの事件のことをクーシャッタ虐殺と呼ぶようになった。この殺人が起きて、共和党知事のウィリアム・ピット・ケロッグは、州内の治安を良くするためにユリシーズ・グラント大統領に連邦軍の増援を要請した。通常の南部人は、ホワイトハウスのグラント大統領に宛てて、当時の恐ろしい暴力状態とその恐怖を伝える手紙を送っていた[11]。
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