レックス・イングラム_(映画監督)
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この項目では、アイルランド出身の映画監督について説明しています。アフリカ系アメリカ人の俳優については「レックス・イングラム (俳優)」をご覧ください。

Rex Ingram
レックス・イングラム

本名Reginald Ingram Montgomery Hitchcock
別名義Rex Hitchcock
生年月日 (1893-01-15) 1893年1月15日
没年月日 (1950-07-21) 1950年7月21日(57歳没)
出生地 アイルランド(当時は英領)
ダブリン県ダブリン
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ノース・ハリウッド
国籍 アメリカ合衆国
職業映画監督脚本家俳優映画プロデューサー
ジャンルサイレント映画
配偶者ドリス・ポウン
(1917年 - 1920年)
アリス・テリー
(1921年 - 1950年死別)

 受賞
1949年 全米監督協会終身名誉会員賞
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

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レックス・イングラム(Rex Ingram, 1893年1月15日[1][2] - 1950年7月21日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家俳優映画プロデューサーである[3]。本名レジナルド・イングラム・モンゴメリー・ヒチコック(Reginald Ingram Montgomery Hitchcock)、俳優時代にはレックス・ヒチコック(Rex Hitchcock)と名乗った。エリッヒ・フォン・シュトロハイムが「世界でもっとも偉大な映画監督」と呼んだ人物である[4]
人物・来歴

1893年(明治26年)1月15日アイルランドダブリン県ダブリンに「レジナルド・イングラム・モンゴメリー・ヒチコック」として、聖職者を父に生まれる[5]。ダブリン県ラスファーナム近くの聖コロンバズ・カレッジに学ぶ[5]。思春期のほとんどを、父がアイルランド国教会の教区牧師を務めたジ・オールド・レクトリーと呼ばれるオファリー県のキニティ、バーで過ごした[5]。1911年(明治44年)、アメリカ合衆国に移民した[5]。弟のフランシス・クリア・ヒチコックは、イギリス陸軍に参加し、第一次世界大戦を戦って戦功十字章を受章、陸軍大佐に昇進している。

イェール大学芸術学部で彫刻を学ぶが、すぐに映画へ転向し、まず1913年(大正2年)から俳優業を始め、さらに脚本、製作、そして監督業へ進出した[5]。最初の製作・監督作は、1916年(大正5年)の恋愛映画 The Great Problem であった[5]。エジソン・スタジオ、フォックス・フィルム、ヴァイタグラフ・スタジオで仕事をし、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)ではおもにアクション映画や超自然映画を監督した[5]。1920年(大正9年)にメトロ・ピクチャーズへ移籍した際、同社の重役であったジューン・メイシスの部下となった。メイシスとイングラムは、『復讐のアルプス』、『黙示録の四騎士』、『征服の力』、『正邪の岐路』の4作をともに生み出した。二人の恋愛関係は、1921年(大正10年)にイングラムがアリス・テリーと駆け落ちしたことで終焉したとされる。イングラムとメイシスとの間の距離が拡大し、メイシスの新しい掘出物であるルドルフ・ヴァレンティノの人気に翳りが見え始めた。この1921年の『ヴァニティ・フェア』誌のラルフ・バートン[6]によるカリカチュアは、バートンがイメージしたハリウッドの著名人を表現している。カーソルを使用して人物を特定してください。

イングラムは二度の結婚を経験しており、一度目は1917年(大正6年)、女優のドリス・ポウンと結婚、1920年(大正9年)に離婚して婚姻関係は終わる[5]。1921年(大正10年)にはアリス・テリーと結婚し、生涯を添い遂げた。1925年(大正14年)、イングラムとフレッド・ニブロは興行的大成功を収めた叙事詩的映画ベン・ハー』を監督し、イタリアで部分的に撮影を行った。イングラムは妻とともに、コート・ダジュールへの移住を決意した。ニースに小スタジオを構え、MGM等の映画を北アフリカスペイン、イタリアで数本のロケーション撮影を行って製作した[7]

この時期、ニースのイングラムのスタジオで働いた人物のなかには、のちに『赤い靴』等の古典作品をエメリック・プレスバーガーと共同監督することになる、若き日のマイケル・パウエルがいる。パウエル自身の手記によれば、イングラムに多大なる影響を受けたという[5]。実際、パウエルののちの作品にはイングラムの影響は見出すことができ、幻想、夢想、魔法や超現実といったテーマにとくに現れている。デヴィッド・リーンもまたイングラムに深く影響を受けていることを認めており[5]、MGMの主任であったドア・シャーリーも、ハリウッドにおけるもっともクリエイティヴな人物として、重要な順にD・W・グリフィス、イングラム、セシル・B・デミルとシュトロハイムを挙げている[5]

イングラムは、わずか1作だけトーキーを手がけている。モロッコで撮影を行った『モロッコの血煙』がそれで、ゴーモン英国映画社作品である。同作は商業的には成功せず、イングラムは映画業界を去り、カリフォルニア州ロサンゼルス市に戻り、彫刻家、文筆家として仕事をした。1927年(昭和2年)にはイスラム教に興味を抱き[8]、1933年(昭和8年)には改宗している[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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