レジサイド_(チャールズ1世)
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チャールズ1世の死刑執行令状。59名の委員によるサインと印章がほどこされている[注釈 1]

レジサイド(: regicide)は「王殺し」を意味する英単語であるが、イングランド史上ではイングランドチャールズ1世処刑に関わった人物を指す。具体的には1649年1月のチャールズ1世の裁判[注釈 2]において死刑執行令状(英語版)に署名した59人の委員(判事)あるいは1660年免責・大赦法で恩赦対象から除外された104人などを指すことが多い。

第二次イングランド内戦オリバー・クロムウェル率いる議会派の円頂党は、チャールズ1世率いる王党派の騎士党を破り、国王を捕縛し処刑するに至った(チャールズ1世の処刑(英語版))。裁判官や軍人などからなる59人のレジサイドのうち、1660年の王政復古時点で存命中だった者の多くは、チャールズ1世の息子で新たに戴冠したチャールズ2世により厳しい報復処罰を受けた。

チャールズ2世の帰還時、イングランド議会は免責・大赦法を策定し、内戦やその後の空位時代(英語版)(イングランド共和国期)に犯されたほとんどの罪に対し恩赦を与えることを決めた。ところが、チャールズ1世の裁判や処刑に関わった104人は恩赦の対象外とされた。なお、そのうち24名はすでに故人となっていた(オリバー・クロムウェル、ジョン・ブラッドショー(英語版)(チャールズ1世裁判の裁判長)、ヘンリー・アイアトン(議会軍の将軍、クロムウェルの娘婿)など)ため、儀礼的に「処刑」された。具体的には、遺体を埋葬場所から掘り起こして絞首台にかけたのち斬首し、下の体は絞首台下の穴に投棄され、首級はウェストミンスター宮殿の端の杭に刺して晒された。また存命者のうち数名は最高刑である首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑にかけられ、19名は終身刑となり投獄された。またレジサイドの多くは財産を没収され、公職から追放されたり地位をはく奪されたりした。また21人は国外亡命を選んだ。ほとんどはオランダやスイス(英語版)に逃れたが、3人は北アメリカのニューイングランド自治領(英語版)に身を隠した。

「レジサイド」がどの程度の範囲の人々を指すのかという定義については、明確な合意がなされていない。免責・大赦法では、王殺しに関わった人物についてレジサイドという言葉は使っていない。そもそもイングランド法には「regicide」という特定の罪名が定義されたことはない。歴史家たちは「レジサイド」という言葉に当てはまる人物をそれぞれ独自の範囲で選んでおり、中にはチャールズ1世の裁判や処刑に立ち会った者でも含むとは限らないという枠決めをしている歴史家もいる。

レジサイドとして糾弾された人々の一覧は、いわゆるブラックリストの走りであるといえる[1]。チャールズ2世は1681年の布告で「もしこの“ブラックリスト”の中に悪意なき魂が含まれたとすれば、その者は朕に向かって怒るのではなく、その者の誤った信条や関心が誤りの(チャールズ1世処刑)投票に向かわせたことをよく考えるがよい。


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