レオ10世による贖宥状
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レオ10世発行の贖宥状(1515年発行)

レオ10世による贖宥状(レオ10せいによるしょくゆうじょう)では、1515年にローマ教皇レオ10世の名の下に売りだされた贖宥状について解説する。

この贖宥状は、イタリアの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるという名目で、ドイツにて売りに出されたもので、実際の発行者はドイツ宗教界の最高位であるマインツ大司教、販売の実務を担うのはドミニコ修道会だった。一般には、この贖宥状に対してザクセン選帝侯領の神学者マルティン・ルターが1517年に異議を唱えたことが宗教改革の端緒だったとされている。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
概要 贖宥状を売るドミニコ会修道士テッツェルに群がる民衆 1517年にルターが95ヶ条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。

贖宥状第1回十字軍(1096-1099年)の頃から大々的に出回るようになったとされている。はじめのうちは十字軍が招集される度に贖宥状が発行されていて、戦場で敵を殺す罪を犯しても、その罰は免ぜられるという性格のものだった。十字軍が下火になったあとは、100年に1度、50年に1度と限定的に発行されていたが、しだいに安易な集金手段として乱発されるようになっていった。

1513年にローマ教皇に就任したレオ10世はもともとイタリアの豪商メディチ家の出身で、日々王侯のような贅沢な暮らしを求め、その費用としてドイツの豪商フッガー家に巨額の借金をするようになった。また、1514年にドイツの最高聖職位であるマインツ大司教に叙任されたアルブレヒト(ドイツ語版、英語版)も、その聖職位を得るための工作資金として、フッガー家から多額の借り入れを行った。フッガー家はこれらの貸付を回収するため、ローマ教皇とマインツ大司教は借金返済のため、3者の協力により「聖ピエトロ大聖堂の再建費用」の名目で贖宥状を発行し、その売上で借金を返済することを計画した。

この贖宥状の販売実務にあたったのは、托鉢修道会の1つドミニコ修道会で、なかでもテッツェルという修道士が凄腕の販売人として歴史に名を残している。彼らは、買うだけでありとあらゆる罪から免れる、との謳い文句でドイツ中でこの贖宥状を売り歩いた、とされている。

この謳い文句を聞いたヴィッテンベルクの神学者マルティン・ルターは、ドミニコ修道会への批判を開始し、1517年秋に95ヶ条の論題を貼り出した。一般的にはこれが宗教改革の端緒になったとされている。

正確にはルターが批判したのは「ありとあらゆる罪」を免れることができるという主張に対してであり、伝統的な贖宥の教理に従えば「罰が一定程度減免される」だけに留まるはずだ、ということを論じようとしただけにすぎなかった。ルター自身は、この贖宥状がマインツ大司教とローマ教皇の借金返済のためのものであることは全く知らなかった。だからルターは、大司教と教皇は善良だが世間知らずのために悪い部下に欺かれているのだ、と考えていた。しかしルターの意図に反し、ルターが贖宥状を批判した、ルターが教皇を批判した、といって騒ぎが大きくなっていった。
贖宥状とは

現世における神の代理者である聖職者への告解によって、神の赦しが与えられる。 人は死後、煉獄で焼かれ、魂の純化を待つ 贖宥状を買う農民の女。 15世紀に贖宥状を批判して火あぶりにされたフス。

ローマ教会が最初に贖宥状を発行したのは第1回十字軍のときだったとされている[1][注 1]。教会は聖地解放の従軍者を集めるため、この戦いに加わった兵士には特別なメリットがあるといって贖宥状を発行した[3]。まもなく、女性や高齢者、病人など自分が直接従軍できない者でも、軍費を負担するならば同じような贖宥が得られるということになった[3]

こうした贖宥状の売上は教皇の財庫に集められ、十字軍が実施されるときにそこからの支出が認められていた[3]。十字軍が下火になったあとは、100年に1度のヨベルの年にだけ発行が認められることになった[2]。これが当たると「ヨベルの年」は50年に1度ということになり、そのうちキリストの生涯と同じ33年に1度になり、さらに「普通の人間はキリストより弱いのだから」といって25年に1度[注 2]になり、どんどん間隔が短くなっていった[2]。1476年にシクストゥス4世が売りに出して以降、贖宥状は安易な集金手段として頻繁に発行されるようになった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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