レオーン4世
Le?n IV ho Khazaros / Λ?ων Δ? ? Χ?ζαρο?
東ローマ皇帝
レオーン4世(左)と息子コンスタンティノス6世(右)
在位775年9月14日 - 780年9月8日
出生749年1月25日
死去 (780-09-08) 780年9月8日(31歳没)
配偶者エイレーネー
子女コンスタンティノス6世
王朝イサウリア朝
父親コンスタンティノス5世
母親エイレーネー(チチャク)
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レオーン4世“ハザロス”(レオーン4せい“ハザロス”、ギリシア語:Λ?ων Δ? ? Χ?ζαρο?, Le?n IV ho Khazaros、749年1月25日 - 780年9月8日[1])は、東ローマ帝国イサウリア王朝の第3代皇帝(在位:775年 - 780年)。同王朝第2代皇帝コンスタンティノス5世の子。「ハザロス」は母エイレーネーがハザールの出身だったためにちなむあだ名。
イコン破壊運動(イコノクラスム)に対して寛容な態度を取ったため、イコン破壊運動は鳴りを潜めた。病弱で[2]、780年に30歳で死去。残された子供のコンスタンティノス6世が幼かったため、レオーンの皇后のエイレーネーが摂政として実権を掌握した[3]。
脚注^ Leo IV Byzantine emperor
表
話
編
歴
東ローマ皇帝
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527
ユスティニアヌス1世527-565
ユスティヌス2世565-578
ティベリウス2世578-582
マウリキウス582-602
フォカス602-610
ヘラクレイオス朝
ヘラクレイオス610-641
コンスタンティノス3世641
ヘラクロナス641
コンスタンス2世641-668
コンスタンティノス4世668-685
ユスティニアノス2世685-694
レオンティオス695-698
ティベリオス3世698-705
ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713
アナスタシオス2世713-715
テオドシオス3世715-717
イサウリア朝
レオーン3世717-741
コンスタンティノス5世741-775
レオーン4世775-780
コンスタンティノス6世780-797
エイレーネー797-802
ニケフォロス朝
ニケフォロス1世802-811
スタウラキオス811
ミカエル1世ランガベ811-813
レオーン5世813-820
アモリア朝
ミカエル2世820-829
テオフィロス829-842
ミカエル3世842-867
マケドニア朝
バシレイオス1世867-886
レオーン6世886-912
アレクサンドロス912-913
コンスタンティノス7世913-959
ロマノス1世レカペノス920-944
ロマノス2世959-963
ニケフォロス2世フォカス963-969
ヨハネス1世ツィミスケス969-976
バシレイオス2世976-1025
コンスタンティノス8世1025-1028
ロマノス3世アルギュロス1028-1034
ミカエル4世1034-1041
ミカエル5世1041-1042
ゾエ1042
テオドラ(共同皇帝)1042
コンスタンティノス9世モノマコス1042-1055
テオドラ(復位)1055-1056 | 断絶 | ミカエル6世ストラティオティコス1056-1057
イサキオス1世コムネノス1057-1059
ドゥーカス朝
コンスタンティノス10世1059-1067
エウドキア・マクレンボリティサ1067-1068