レオ・ホワイト
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レオン・ホワイト」とは別人です。

レオ・ホワイト
Leo White
1917年頃のスチール写真
生年月日 (1873-11-10) 1873年11月10日
没年月日 (1948-09-20) 1948年9月20日(74歳没)
出生地 プロイセン王国 西プロイセン、グラウデンツ(現 ポーランドグルジョンツ
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州グレンデール
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優コメディアン
ジャンル映画
活動期間1911年 - 1948年
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レオ・ホワイト(Leo White、1873年11月10日[1][2] - 1948年9月20日)は、プロイセン王国出身のアメリカ合衆国俳優コメディアン1910年代から1940年代にかけてチャールズ・チャップリン「ファッティ」ロスコー・アーバックルオリヴァー・ハーディマックス・ランデーらの助演者として活躍し、胡散臭さ漂う成りすまし伯爵の役柄を得意とした[1][3]。レオの演じる伯爵は特に「フランス人伯爵」とも呼称されるが[1][3]、この場合における「フランス人」はフランス国籍を有する人々を指すのではなく、チャップリンも映画入りする前に身を置いたミュージックホールで演じられていた寸劇にしばしば出てくるキャラクターの一つである[4]
生涯

レオ・ホワイトは1873年11月10日、プロイセン王国西プロイセンのグラウデンツ、現在のポーランドグルジョンツに生まれる。生年に関しては1880年[3]、1882年[5]、1887年[6]とする資料もある。幼年期から青年期にかけてのことに関する詳細ははっきりしないが、1890年代後半からミュージックホールの舞台に立つ芸人としてキャリアを重ねるようになる[3]。1910年にハリウッドの演劇プロデューサーであるダニエル・フローマン(英語版)に見いだされてアメリカにわたり、渡米後は映画界に移って1914年にエッサネイ社と契約する[1]

エッサネイ社には当時年長のコメディアンであるベン・ターピンが在籍しており、同じ1914年の暮れには、キーストン社からチャップリンが移籍。エッサネイ時代とミューチュアル社(英語版)におけるチャップリン作品では、エッサネイ社移籍第1作の『チャップリンの役者』でユサール将校を騙る役者を演じて以降、常連の脇役として出演する。しかし、レオはチャップリンに忠実ではあったが、エッサネイ社にも忠実であった。チャンプリンが契約問題が原因でエッサネイ社を去ったあと、レオはエッサネイ社の命を受けて『チャップリンのカルメン』の追加撮影分を監督する[7]。ベン・ターピンが演じる新キャラクターの出演シーンが追加され、カットされたチャップリンの出演シーンを発掘してつなぎ合わせたレオ版の『チャップリンのカルメン』は1916年4月に四巻物の作品として再公開[注釈 1]、知らせを聞いたチャップリンは寝込むほどショックを受けた[7]。チャップリンは上映差し止めの裁判を起こすが敗訴し[8]、これに力を得たエッサネイ社は『チャップリンの悔悟』の一部と『生活』と題された長編喜劇の未使用フィルムを接続した作品を作り上げ、追加の場面の監督をレオに命じた[9]。『三つ巴事件』と名付けられたこの作品は、チャップリンの承認を得ていない。チャップリンの伝記を著した映画史家のデイヴィッド・ロビンソン(英語版)は作品を「失敗作」と断じてはいるものの、レオの演出自体には一定の評価を与えている[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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