レオ・ドローチャー
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レオ・ドローチャー
Leo Durocher
ブルックリン・ドジャース時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地マサチューセッツ州ウェストスプリングフィールド
生年月日1905年7月27日
没年月日 (1991-10-07) 1991年10月7日(86歳没)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1925年
初出場1925年10月2日
最終出場1945年4月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ニューヨーク・ヤンキース (1925, 1928 - 1929)

シンシナティ・レッズ (1930 - 1933)

セントルイス・カージナルス (1933 - 1937)

ブルックリン・ドジャース (1938 - 1941, 1943, 1945)

監督歴


ブルックリン・ドジャース (1939 - 1948)

ニューヨーク・ジャイアンツ (1949 - 1955)

シカゴ・カブス (1966 - 1972)

ヒューストン・アストロズ (1972 - 1973)

太平洋クラブライオンズ (1976)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1994年
選出方法ベテランズ委員会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

レオ・アーネスト・ドローチャー(Leo Ernest Durocher, 1905年7月27日 - 1991年10月7日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウェストスプリングフィールド出身のプロ野球選手遊撃手)、監督。右投右打。

ニックネームは「Leo the Lip(レオ・ザ・リップ)」。
経歴
現役時代

1925年に19歳でニューヨーク・ヤンキースからデビューする。その後2年間のマイナー暮らしの後、1928年からヤンキースの遊撃手として2年間活躍した。持ち前の気の強さからか、ドローチャーに腕時計を盗まれたとするベーブ・ルースを毛嫌いしてひと悶着を起こしたり、デトロイト・タイガースタイ・カッブを野次ってカッブに詰め寄られるなどしていた。その割に自身の打撃成績はぱっとせず、当時殺人打線(英語版)と呼ばれたヤンキースの中でも最も打てない選手の一人で、ルースからは「オール・アメリカン・アウト」とあだ名をつけられていた。

1930年からシンシナティ・レッズに約3年在籍、その後1937年まで、当時「ガスハウス・ギャング」として有名だったセントルイス・カージナルスの遊撃手を務めた。その後、1938年ブルックリン・ドジャースへ移籍し、翌1939年から選手兼任監督となって、1945年まで試合に出場していた。MLBオールスターゲームには1936年1938年1940年の3度選ばれている(1940年は出場せず)。

現役時代守りの選手だったドローチャーの特筆すべきプレーは、レッズ在籍時の1931年9月6日、カージナルス戦で「隠し球を使って三重殺を完成した」プレーである。この試合の6回表、無死一塁三塁でカージナルスのジミー・ウィルソンがレフトにフライを打ち上げ、これを左翼手のニック・カロップが捕球、タッチアップした三塁走者ジム・ボトムリーは本塁で封殺される。この間に一塁のチック・ヘイフィーは二塁を陥れ、捕手から遊撃手だったドローチャーに送球されるも走者はセーフとなる。ドローチャーはこの後捕球したボールを投手に返さず、二塁手のトニー・クッチネロにこっそりと手渡し、気づかなかったヘイフィーが離塁したところを二塁手がタッチしまんまとアウトにした。隠し球が絡んだ三重殺は、メジャーリーグ史上このプレーともう一例の計2例のみである。
監督時代

ドローチャーは1939年、33歳の若さでブルックリン・ドジャースの監督(当初は選手兼任)に就任し、3年目の1941年にはチームをナショナルリーグ制覇に導いた。

ところが、1947年シーズン開幕前に突然姿を消してしまう。ハッピー・チャンドラーコミッショナーが調査した結果、ドローチャーは新進女優のラレイン・デイと手を取って駆け落ちしていたことが判明した。他の理由も含め、チャンドラーはドローチャーに「1947年シーズンの出場停止」という裁定を下した[1]。ところが、皮肉にも代理監督の下でドジャースはリーグ優勝してしまい、ドローチャーがデビューを後押ししていたジャッキー・ロビンソンも、この年にMLBデビューを果たしている。

1948年途中、ライバルチームのニューヨーク・ジャイアンツに引き抜かれた。

1951年ナショナルリーグ優勝決定プレーオフで古巣・ドジャースと対戦して2勝1敗で破り、リーグ制覇を果たす。プレーオフ第3戦では9回裏の2-4で2点リードされた状況でボビー・トムソンが打席に入る時に「今、君がここで逆転サヨナラ本塁打を打つと神のお告げがあった」とトムソンに囁いたと伝えられている。現実もその通りとなり、「世界中を駆け巡ったホームラン」と表現された[1]

1954年にはワールドシリーズクリーブランド・インディアンスを4勝0敗で破り、ワールドチャンピオンに輝いた。

1955年にジャイアンツの監督を退いたあと、1961年から4年間ロサンゼルス・ドジャースのアシスタントコーチを務めたのち、1966年シカゴ・カブスの監督に、1972年途中にはヒューストン・アストロズの監督に就任、1973年まで監督業を務めた。ドローチャーは熱血漢としての側面もあり、退場となった回数は通算で124回にも及ぶ。(2007年現在、ボビー・コックスジョン・マグローについで歴代3位。)

ドローチャーは1991年10月7日カリフォルニア州パームスプリングスで死去した。86歳没。死後の1994年に、監督としてベテランズ委員会の選考によってアメリカ野球殿堂入りを果たしている。


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