レオ・シラード
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レオ・シラード
Leo Szilard
1960年頃のレオ・シラード
生誕1898年2月11日
オーストリア=ハンガリー帝国ブダペスト
死没 (1964-05-30) 1964年5月30日(66歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州ラ・ホヤ
居住オーストリア=ハンガリー帝国
ドイツ国
イギリス
アメリカ合衆国
研究分野物理学生物学
研究機関フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(ベルリン大学)
オックスフォード大学
コロンビア大学
シカゴ大学
ソーク研究所
出身校フリードリヒ・ヴィルヘルム大学
博士課程
指導教員マックス・フォン・ラウエ
主な業績シラードのエンジン思考実験
核連鎖反応の概念の創出
シラード=チャルマーズ効果
核分裂における二次中性子の確認
主な受賞歴アルベルト・アインシュタイン賞 (1960)
平和のための原子力賞 (en, 1960)
プロジェクト:人物伝
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レオ・シラード(Leo Szilard,[注 1] ハンガリー名: Szilard Leo [?sila?rd ?l?o?], 1898年2月11日 ? 1964年5月30日)は、原子爆弾開発などに関わったハンガリー生まれのアメリカユダヤ系物理学者分子生物学者。カナ表記ではジラードとも。

アインシュタインを通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として知られる。原爆開発の開始に大きな役割を演じたにもかかわらず、第二次世界大戦末期には日本への無警告の原爆投下を阻止しようとして活動した点をもって、「良識派」と見なされることが多い反面、科学史研究家の中には、こうした見方を否定する研究家もおり、科学史上の評価は割れている[1]。戦後は、核軍備管理問題に関して積極的な活動を続けた。一つのことを突きつめ業績を積み上げるよりも、知的放浪者として広い分野で創造的なアイデアを生み出すことを楽しみ、熱力学核物理学から分子生物学に至る科学的研究に止まらず、社会的活動や政治的活動にも積極的に関わった。

1939年、アインシュタインにルーズベルト大統領へ核開発を促す有名な書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)を送ることを依頼したのをはじめ、シラードは他の科学者や有力者との接触によっていくつかの活動を影で支援した。
業績・活動

シラードの興味の対象は幅広く、また彼の波乱に富んだ生涯と切り離せない。熱統計力学原子核物理学分子生物学の科学的研究のみならず、先進の物理的アイデアに基づいた多くの特許や、社会活動団体の設立、さらには小説の執筆にまで及ぶ。一方、その根底にある、独立した個人の創造性への信念と人道主義的な世界救済の思想は生涯変わることがなかった。

論文よりも特許を申請することを好み、原子炉粒子加速器など多くの先進的なアイデアが特許として残されている。科学のみならず世界情勢に関しても人より先を見通すことに長けており、そうした自己の信念やアイデアを絶対視して周囲をまとめようとしたため、しばしば同僚研究者を苛立たせた一方で、その洞察力には一目置かれた。亡命後はわずかなスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば朝から何時間も湯舟に浸かって思索するのを好んだ。
エントロピーと生物学

シラードの科学的研究対象は熱統計力学に始まり分子生物学に終わった。1922年の博士論文と、その半年後に書かれた論文はエントロピー増大則(熱力学第二法則)に関するものであり、特に後者はこの法則と矛盾するように見えるために長らく熱力学を悩ませていた難題であるマクスウェルの悪魔を扱っていた[2]。この論文でシラードはシラードのエンジンと呼ばれる理論モデルを用いて、熱力学の概念であったエントロピーが観測によって得る情報の概念と直接に繋がっていることを示し、観測行為が一定の平均エントロピー生成と本質的に結びついているとしてエントロピー増大則は守られると主張した。現在ではこのシラードの解釈は修正を受けているものの、エントロピーと情報との関係を示すこの先駆的な指摘は、1940年代後半にシャノン情報理論にエントロピーの概念をより明確に導入し、確率論の上で定義された情報が研究対象となるまで長らく忘れられていたものであった[3]

シラードは、このマクスウェルの悪魔の議論に、より一般に生命それ自体への理解へと繋がるものを見ていた。それが得られるような物理学と生物学を繋ぐ一般的理論では、統計力学がいう平衡状態が混沌ではなく、むしろ力学を越えて高次の秩序へ向かうものを意味するものとなるだろうと考えた[4]。シラードの論文集に序文を寄せた分子生物学者ジャック・モノーは、シラードが「心の中ではいつでも生物学者であった」とし、シラードの生物学への転向をこうした「マクスウェルの悪魔の熱力学についての初期の研究への回帰」であったのではないかとしている[5]
核物理学への傾注

こうした生物物理学への志向にもかかわらず、時代的制約によって壮年期のシラードの研究はほぼ原子核物理学へと向けられた。1933年、ドイツを逃れてほどなく、中性子による核連鎖反応の可能性に思い至り、以降核物理学の研究に没頭する。しかし、このシラードのひらめきは核分裂の発見に6年先立つものであったため、その前半は不安定な身分の中での孤独な研究に身を投じることとなった。1934年、浴槽で思索に耽っていたとき、中性子捕獲した後の核反応生成物を分離する方法を思いつき、シラード=チャルマーズ効果 (Szilard-Chalmers effect) を発見している[6][7]

1939年にウラン原子核の核分裂が発見され、シラードの懸念が一転して物理学の中心的話題となると、エンリコ・フェルミらやフレデリック・ジョリオ=キュリーらと平行して核分裂実験で二次中性子の放出を確認した。第二次世界大戦中、研究は極秘の原子爆弾開発計画であるマンハッタン計画として政治の世界へと飲み込まれることとなった。マンハッタン計画初期には、フェルミらに協力して世界初の原子炉シカゴ・パイル1号を実現に導いたが、計画を指導した陸軍との確執が深まるとともに政治的な活動に深く関わっていった。戦後、核開発競争の時代となってからも、こうした核管理問題に関する政治的活動に積極的に携わった。
アイデアと特許

シラードは、立場や環境に束縛されない独立した個人でいることによって、人の創造性が最大限に発揮できるものと考えていた。


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