言語アストゥリアス・レオン語[1]、ラテン語、カスティーリャ語、ガリシア・ポルトガル語、モサラベ語
国教カトリック
宗教イスラム教スンナ派
ユダヤ教
首都レオン
国王
911年 - 914年ガルシア1世
1188年 - 1230年アルフォンソ9世
変遷
アストゥリアス王アルフォンソ3世が息子3人に国土を分割相続させた910年
カスティーリャ王フェルナンド3世がレオン王に即位したことで同君連合となる1230年
現在 スペイン
ポルトガル
レオン王国(レオンおうこく、スペイン語: Reino de Leon、アストゥリアス語: Reinu de Llion)は、イベリア半島に存在した王国である。レオン・アストゥリアス王国ともいう。
イベリア半島に侵入したイスラム勢力の侵攻で崩壊した西ゴート王国の貴族ペラーヨがアストゥリアス地方に建てたアストゥリアス王国が起源になっている。
沿革
アストゥリアス王国詳細は「アストゥリアス王国」を参照
711年の西ゴート王国滅亡後イベリア半島はイスラム教徒によって支配された。イスラム教徒の支配下では税を支払う代わりに西ゴート式の独自の典礼を維持したキリスト教徒たちがおり、モサラベと呼ばれた。北部山岳地帯のキリスト教国アストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国に対抗した[2][3][4][5]。従来アストゥリアス王国のこのような反抗は、西ゴートの後継者を自認する同王国が宗教的政治的目的から遂行しており、それがレコンキスタ精神に直接つながるものと考えられることが多かったが、最近はこのような見方は修正されつつある[6][4][7]。一方で従来説の支持者は、西ゴート貴族のアストゥリアスへの移住や国王選出方式が西ゴート式であったというような傍証を挙げている[8]。
722年、西ゴート王国の貴族ペラーヨはコバドンガの戦いでイスラム軍を破り、以後、アストゥリアス地方が、レコンキスタの拠点になる。
791年に即位したアルフォンソ2世(760年 - 842年)の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきたモサラベの建言を容れて、西ゴート方式の宗教儀式を部分的に採用し、西ゴート王に連なる家系図を作らせ、アストゥリアスが西ゴート王国の継承者であるという「新ゴート主義
」が成立した[9][10]。新ゴート主義とは、スペインの歴史家ラモン・メネンデス・ピダルが提唱した、この時期のアストゥリアス王国に見られる、西ゴート時代の意識的模倣のことである[11]。