マリ・エスプリ・レオン・ワルラス
Marie Esprit Leon Walrasローザンヌ学派
レオン・ワルラス
生誕1834年12月16日
フランス王国
ウール県 エヴルー
死没 (1910-01-05) 1910年1月5日(75歳没)
スイス
ヴォー州 クララン
研究分野一般均衡理論、限界革命論
影響を
受けた人物オーギュスト・ワルラス
マリ・エスプリ・レオン・ワルラス(ヴァルラス、フランス語: Marie Esprit Leon Walras [val?as]、1834年12月16日 - 1910年1月5日)は、フランス生まれの経済学者。スイスのローザンヌ・アカデミーで経済学の教鞭を執った。経済学的分析に数学的手法を積極的に活用し、一般均衡理論を最初に定式化し、ヨーゼフ・シュンペーターによって「すべての経済学者の中で最も偉大」と評された[1]。生涯、労働者の貧困解決を課題とする社会主義者でもあった[2]。 ワルラスは1834年、フランスのエヴルーに生まれた。エコール・ポリテクニークを受験するものの、最初は受験要件を満たせず、翌年は数学で失敗し、入学できなかった。やむなくパリ国立高等鉱業学校に入学したが、当時のこの学校の実学指向の強さを嫌い、文学に傾倒し、サンシモン主義者と交わったりして二年留年し、中退した。サンシモン主義者との交流や、父の影響で、土地国有化思想を身につけた[2]。 その後、父のオーギュスト・ワルラス
生涯
36歳の時、租税会議で彼に注目していたルショネーに誘われ、スイス、ヴォー州に完成したローザンヌ・アカデミー(後のローザンヌ大学)の新設に際して募集された経済学教授採用試験に応募した。その社会主義的主張に対する反対に対し、知名人二人と学問的寛容さを示したダメット教授、ルショネーの賛成を得て、4対3で辛うじて合格し、一年の仮採用の後、初代教授となった。
彼の理論は、記述言語としての数学の利用がよく理解されず、難解と思われ、その重要性は長い間認められなかった。彼自身、そのことはよく理解しており、友人に宛てた手紙の中でもそのことに触れている。自分の理論の広がりを喩えて、彼は友人に宛てた手紙でこのように語っている。人は何をしているかを知っておく必要がある。短期間に取入れたいなら、人参やサラダ菜を植えなければならない。樫の木を植えたいならば、次のように心に言い聞かせるよう、十分賢くなければならない。: 私の子孫達が私のお陰でこの木蔭を得る。こう決めたのは私だ。この小さな苗木が伸びるのを見守り、それが少し育つのを見ても、もっと大きくしようと苗木を引っ張って痛めないようにしなければならない。 ? レオン・ワルラス、1903年4月13日、Louise G. Renard宛の手紙
それでも彼の理論は、徐々に広がっていき、その死の直前には、最初の著作(『経済学と正義』)以来の研究50周年を1909年に祝われ、世界中の経済学者から感謝のメッセージを受けたのは、幸いであった。彼は1892年に教授職を退き、1910年、モントレーの近くのClarensで死去した。
思想・影響
父オーギュスト・ワルラスの影響スイスのヴォー州クラレンスの墓地にあるワルラスとその娘マリー・アリーヌ(1869?1942)の墓。