レオポルト
Leopold
アンハルト=ケーテン侯
出生 (1694-11-29) 1694年11月29日
神聖ローマ帝国
アンハルト=ケーテン侯領、ケーテン
死去 (1728-11-19) 1728年11月19日(33歳没)
神聖ローマ帝国
アンハルト=ケーテン侯領、ケーテン
配偶者フリーデリケ・ヘンリエッテ・フォン・アンハルト=ベルンブルク
シャルロッテ・フリーデリケ・フォン・ナッサウ=ジーゲン
子女ギゼラ・アグネス
エマヌエル・ルートヴィヒ
レオポルディーネ・シャルロッテ
家名アスカーニエン家
父親アンハルト=ケーテン侯エマヌエル・レーブレヒト
母親ギーゼラ・アグネス・フォン・ラート
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レオポルト・フォン・アンハルト=ケーテン(Leopold von Anhalt-Kothen, 1694年11月29日 - 1728年11月19日)は、アスカーニエン家の人物でアンハルト=ケーテン侯(在位:1704年 - 1728年)。ヨハン・ゼバスティアン・バッハを支持し、バッハとは生涯を通じて交友をもった。 レオポルトはアンハルト=ケーテン侯エマヌエル・レープレヒト
生涯
家族
父は1704年に早世したため、母が当時10歳のレオポルトの摂政をつとめ、レオポルトは母の影響を大きく受けることになった。父の残した遺言は、厳格なルター派の母を後見人と定めていたが、そのために争いが起きるといけないので、同時にプロイセン王フリードリヒ1世を上位後見人としていた。母はレオポルトにルター派の教育を施していたが、フリードリヒ1世らはレオポルトが改革派となることを希望していた。またフリードリヒ1世はブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに騎士アカデミーを近年創設したばかりだった。したがってレオポルトが騎士アカデミーに入学するべき決定が下され、レオポルトは1708年から1710年の間そこで学ぶこととなったのであった。1708年11月にはベルリナー・ホーフでアウグスティン・ラインハルト・シュトリッカーの大掛かりな祝賀オペラ「アレクサンダーとロクサーネンの結婚」が催され、レオポルトは舞踏役として参加した。
またレオポルトが音楽好きであったことを示すエピソードとして、1707年10月にそれまで宮廷楽団がなかったケーテン宮廷に3人の音楽家を雇うように母を説得している、というものがある[1]。 1710年10月9日、レオポルトは貴族の子弟の慣習に従い、グランドツアーを開始した[1]。その際、ルター派のクリストフ・ヨープスト・フォン・ツァンティアーが随行した。「適切な改革派の案内人が見からなかった」というのが理由であった。1710年から1711年にかけての冬、デン・ハーグを旅した。デン・ハーグでは4ヶ月しか滞在しなかったが、その間に12ものオペラを鑑賞した。レオポルトの音楽への傾倒ぶりがよく表れている。とりわけレオポルトはジャン=バティスト・リュリの作品を好み、その出版譜を手に入れ大事にした。またレオポルトは自らチェンバロやヴァイオリンの演奏をした。 レオポルトが1711年に自国へ戻ると、フリードリヒ1世はレオポルトをプロイセン軍の将校に任命しようとしたが、レオポルトの母の賛同が得られず、この案は取り消された。その代わりレオポルトはイギリスへ旅を継続し、ロンドンの歌劇場とオクスフォード大学を訪れた。レオポルトはこの大学の図書館に強い関心を抱いた。 それからオランダ、フランクフルト・アム・マイン、アウクスブルクをまわってイタリアへと移動した。ヴェネツィアではオペラをよく鑑賞し、レオポルト分の出費だけでも130ターラーに上った。またローマを巡るにあたってはヴァイオリンの名手で後のドレスデンの宮廷楽長のヨハン・ダーフィト・ハイニヒェンを一ヶ月の間雇い、師事している[1]。この名人はローマ以降もイタリアの案内をしばらく務めたことだろう。さらにフィレンツェを訪れ、トリノを訪れ、9日後にはウィーンを訪れた。そこでレオポルトはフランチェスコ・マンチーニの「12のカンタータ集」を入手している。 1713年4月17日、レオポルトはケーテンへと帰った。グランド・ツアーの総額は55,749ターラーだった。宮廷ではこの高額の出費に批判の声が上がったが、レオポルトは宮廷楽団を設立し、旅費の半額を私財から出すことでこの批判を抑えた。1713年、ベルリンの宮廷楽団が解散したため、レオポルトはとびきりすぐれた音楽家を雇うことができた。
グランドツアー