レオポルト2世_(アンハルト=デッサウ侯)
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レオポルト2世
Leopold II.
アンハルト=デッサウ

在位1747年 - 1751年

出生 (1700-12-25) 1700年12月25日
神聖ローマ帝国
アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ
死去 (1751-12-16) 1751年12月16日(50歳没)
神聖ローマ帝国
アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ
配偶者ギーゼラ・アグネス・フォン・アンハルト=ケーテン
子女一覧参照
家名アスカーニエン家
父親アンハルト=デッサウレオポルト1世
母親アンナ・ルイーゼ・フェーゼ
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レオポルト2世(Leopold II. Maximilian, Furst von Anhalt-Dessau, 1700年12月25日 - 1751年12月16日)は、アンハルト=デッサウ侯(在位:1747年 - 1751年)でプロイセン王国の将軍。アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世(「老デッサウ」)と妃アンナ・ルイーゼ・フェーゼの次男でヴィルヘルム・グスタフの弟、ディートリヒの兄。
生涯

レオポルト・マクシミリアンは9歳にもならない頃から、父のプロイセン軍における軍務に同行していた。1715年には中佐としてシュテンダール (Stendal) の第27歩兵連隊の連隊長に就任する。1733年テューリンゲン州ミュールハウゼン (Muhlhausen) に対する侵攻部隊を率い、ライン川の戦線に従軍し、第一次シュレージエン戦争ではプロイセン軍の指揮下で、グロガウを奇襲により攻略した。またブレスラウを計略によって陥落させ、コトゥジッツの戦いではフリードリヒ2世に次ぐ指揮権を与えられている。

その戦場で元帥に任命され、1747年の父の死後には国政に参加し、父の跡を継いで古プロイセンの第3歩兵連隊の指揮官にも就任した。しかし、それから4年後の1751年に死去。息子のレオポルト3世が後を継いだが幼少のため、弟でプロイセンの将軍でもあったディートリヒが後見人を務めた。
子女

1737年、同族のアンハルト=ケーテンレオポルトの娘ギーゼラ・アグネス(1722年9月21日 - 1751年4月20日)と結婚した。誕生した子女は以下の通り。

レオポルト3世(1740年8月10日 - 1817年8月9日) - アンハルト=デッサウ侯、後にアンハルト=デッサウ公

ルイーゼ・アグネス・マルガレーテ(1742年8月15日 - 1743年7月11日)

ヘンリエッタ・カタリーナ・アグネス(1744年6月5日 - 1799年12月15日) - 1779年10月26日にレーン男爵ヨハン・ユストゥスと結婚。

マリー・レオポルディーネ(1746年11月18日 - 1769年4月15日) - 1765年8月4日にリッペ=デトモルト伯ズィーモン・アウグストと結婚。

ヨハン・ゲオルク(1748年1月28日 - 1811年4月1日)

カズィミーレ(1749年1月19日 - 1778年11月8日) - 1769年11月9日に、亡姉の寡夫であるズィーモン・アウグストと結婚。

アルベルト・フリードリヒ(1750年4月22日 - 1811年10月31日) - 1774年にリッペ=ヴァイセンフェルト伯女ヘンリエッテと結婚。嫡子は生まれなかった(アンナ・ルイーゼ・フランケという女性との間に、非嫡出子のグスタフ・アドルフ・フォン・ハイデック(Gustav Adolf von Heideck)を設けている)。

文献

Siebigk: Leopold II.. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 18, Duncker & Humblot, Leipzig 1883, S. 352?356.

先代
レオポルト1世アンハルト=デッサウ侯
1747年 - 1751年次代
レオポルト3世

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